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春三番の大嵐 (1972年)

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1972年3月31日から4月1日にかけて、日本近海で 春三番 の大嵐が吹き荒れました。海は大シケになり、3000トン級の船舶を含む海難50件が発生し、合わせて死者・不明100人以上という戦後3番目の規模の海難事故となりました。 「春三番」の語は1972年4月1日付朝日新聞朝刊の見出しに登場しました。 死者10、不明65人に 春三番の海難事故48件 そればかりか、気象庁の公式記録である「気象要覧」でも次のように使われています。 春三番があるなら春二番、春一番も当然あったわけで、春二番は3月24日が該当しそうです。また、この年の関東地方における春一番は3月20日に観測されました。これは観測史上もっとも遅い春一番でしたが、この春一番をもたらした低気圧によって富士山では死亡・不明24人という史上最大(当時 1 )の パンパカ 遭難が発生しました。さらに、九州西方の男女群島付近でも死亡・不明13人という漁船の座礁事故が起きています。 なお、俗に「花おこしの春二番、花散らしの春三番」などといわれることもありますが、調べてみるとほとんど一致しません。 その後これを超える パンパカ 遭難があったかどうかは興味がないので知りません。 ↩︎

八百屋お七火あぶりの刑 (1683年)

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天和三年三月二十九日(グレゴリオ暦で1683年4月25日)、八百屋お七が鈴ヶ森刑場にて火あぶりの刑に処せられました。 お七という少女が火付けの罪でこの日火あぶりの刑に処せられたのは事実のようですが、お七が放火した火事については天和二年一月説、天和二年十二月のいわゆる“お七火事”説、天和三年三月説などがあります。時系列などを考慮すると、おもに天和三年三月だとするのがもっとも違和感がありません。 この火事は、天和三年三月二日(1683年3月29日)の夜、本郷・森川宿にある八百屋の娘、お七がひとりで近くの商家に放火したところを通行人に発見され、すぐに消し止められたというもので、今流にいえばボヤです。しかし、当時はボヤでも放火は大罪であり、市中引き廻しの上、火あぶりになるのが通例でした。 放火の動機は、天和二年十二月二十八日の大火事(いわゆる「天和の大火」)でお七の家も被災して正仙院などのお寺に仮住まいした際、そこの“イケメン”と恋仲になったのですが、新居が完成して会えなくなり、再び火事になれば会えるという妄想が、彼女を放火へと駆り立てたとされています。 お七の年齢、被災した火災、仮住まいしたお寺の名前(正仙院、円乗寺、吉祥寺など)、“イケメン”の名前(生田庄之介、吉三郎、山田佐兵衛など)には多くの異説があります。 とくに有名なのが、お七の年齢と奉行にまつわる悲話です。当時、15歳以下ならば死刑を免れるという規定がありました。お七を哀れんだ奉行が「お前は15歳だろう?」と助け船を出したにもかかわらず、お七は生真面目に「16歳です!」と答え、証拠のお守りまで提示してしまったため、まったく減刑の余地がなくなり刑が執行されたというエピソードは、けっこう知られています。 これが円乗寺に現存するお七のお墓です。 今では知る人ぞ知る恋愛成就のパワースポットだそうです。 ちなみに、内田康夫『追分殺人事件』では、1987年3月7日にこのお墓の前で男の変死体が発見されたことになっています。これについての詳細は次を参照してください: 八百屋お七のお墓の前に変死体 (1987年)

やせたソクラテスより太った豚 (1964年)

1964年3月28日、東大の大河内一男学長が卒業式で「太った豚になるより、やせたソクラテスになれ」と訓辞した――とされています。 広くいわれていますが、実際にはこのような言葉は本番では一言も語らなかったそうです。一種の都市伝説でしょう。 とはいえ、まったくの捏造というわけではなく、事前にマスコミに配られた予定稿には確かに書かれていたそうです。しかし本番で学長がうっかり(あるいは意図的に?)その部分を読み飛ばしてしまったのです。ところが当時の新聞記者は誰ひとり実際の式辞の内容を確認せず、もらった原稿をそのまま記事にしてしまったため、「東大学長の名言」として世間に定着してしまったわけです。マスコミの裏取りの甘さは今も昔もけっこう変わらないものですね(笑) 夕刊への入稿の締め切りなどがあったのかもしれませんが。 さらにこの話にはオチがありまして、そもそもこの言葉は大河内学長のオリジナルではなく、原稿ではイギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの言葉として引用されていました。おもにミルの著書『功利主義』からの引用とされていますが、その原文を見てみると、 満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。 とあり、「太った豚」や「やせたソクラテス」なんて言葉は出てきません。誰が翻訳したのかは知りませんが、けっこう大胆な意訳、というか改変が加わっているわけです。 ちなみに、ホンモノのソクラテスはデブだったという話があり、ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』には「チビで、デブで、目つきが陰険で、鼻は上を向いていた」というふうに書かれています。 この一連のすれ違いは、2015年の東大教養学部の卒業式で当時の石井学部長が「権威ある言葉でも無批判に信じ込まず、一次情報を自分の目で確認せよ」と、批判的思考の重要性を説くネタとして取り上げたことで、とくに有名になりました。 それにしても豚に対して失礼な言い草ですね。太った豚は食料として役に立ちますが、やせた(本当はデブの)ソクラテスはへりくつをこねるだけで害にこそなれ、何の役にも立ちません(笑) 情報リテラシーだ批判的思考だと説教されるのもいいですが、まずは豚の尊厳について考えてみるべきではないでしょうか。

杉野はいずこ 杉野はいずや (1904年)

AD1904/03/26 第2回旅順口閉塞作戦(~27日) AD1904/03/27 第2回旅順口閉塞作戦。広瀬武夫少佐が壮烈な戦死(死後中佐に昇進) その名も 「広瀬中佐」 という唱歌がありまして、なぜか小学生のころから知っていました(笑) もっとも、そのころはどうも 「勇敢なる水兵」 と状況を混同していたきらいはあります。とくに軍事ヲタでない私は当然のことながら閉塞作戦なんて知らなかったですから。 とはいえ今の時代、閉塞作戦を知らない人はけっこういるようで、 日本映画専門チャンネル のホームページに 次のような解説記事 (リンク切れ)がありました。 “杉野はいずこ”広瀬少佐といっても誰もわからないかも知れないので、ちょっと説明しよう。自分の乗っていた戦艦《ママ》が敵の攻撃を受けて大破、沈没寸前というとき、広瀬少佐は乗組員を全員救命ボートで脱出させたあと、火柱が上がりどんどん浸水する艦内でたったひとり姿の見えない部下、杉野を探すのだ。しかし、とうとう見つけられずに自分も杉野も艦と運命をともにしてしまう《ママ》、という話なのだ。当時は、部下を思い遣る上官の美談として語られて有名になった。 何の映画の解説かは忘れました。 話がそれましたが、その唱歌「広瀬中佐」に やみをつらぬく 中佐の叫び 杉野はいずこ 杉野はいずや というフレーズがあります。杉野さんっていったいどうなったんだろう? となんとなく疑問に思っていました。たぶん亡くなったんだろうという想像はできましたが、とくに軍事ヲタでない私は広瀬中佐とともに軍神レベルに祭り上げられているなんて知りませんでしたし。 ただ、実際には死亡は確認されていなかったようです。林えいだい『日露戦争秘話 杉野はいずこ―英雄の生存説を追う』によると、東郷平八郎司令長官の報告書には杉野孫七一等兵曹は「戦死せるものゝ如く」とあるだけで、今流の言い方では行方不明ということだそうです。 そういうこともあり、杉野さんについては日露戦争直後から生存説が流布していたようです。 しかし、かりに生存していたとしても、広瀬「中佐」を軍神扱いする以上、杉野「一等兵曹」も戦死していないとサマにならないわけです。軍神扱いをされていた本人に生きていられては当時の軍部としては困るわけで、帰国はかなわず、杉野孫七という個人がこの世か...

15年前の今日、暗闇を照らしたメイダンの奇跡 (2011年)

今日、2026年3月26日で、あの夜からちょうど15年が経ちました。 「 メイダンの奇跡 」のお話です。 2011年3月11日。未曾有の被害をもたらした 東北地方太平洋沖地震 から、わずか2週間ほどしかたっていない時期でした。当時の日本は深い悲しみと混乱の中にあり、スポーツやエンターテインメントを楽しむ空気はまったくと言っていいほどありませんでした。競馬界も例外ではなく、多くのレースが中止や延期を余儀なくされ、日本全体が下を向いていた日々です。 そんな重苦しい雰囲気の中、アラブ首長国連邦のドバイ、メイダン競馬場で行われたのがドバイワールドカップ(G1)です。 世界最高峰の競走として知られるこの大舞台。1996年の創設以来、多くの日本の名馬たちが挑戦しては厚い壁に跳ね返されてきました。優勝争いはおもに海外の強豪馬たちによって繰り広げられ、それまで日本の馬が勝ったことは、ただの一度もなかったのです。 この年、出走した日本馬はヴィクトワールピサ(M.デムーロ騎手)、トランセンド(藤田伸二騎手)、ブエナビスタ(R.ムーア騎手)の3頭。 スタートで、ヴィクトワールピサが痛恨の出遅れを喫します。1コーナーでは最後方の位置に。 レースはトランセンドが逃げる形でスローペースになり、ヴィクトワールピサのデムーロ騎手はそれを利用して向正面でスルスルと進出、3コーナー手前で先頭のトランセンドの外まで上がってきます。 直線に入っても2頭の脚色は衰えません。後続の猛追をしのぎ切り、ヴィクトワールピサが1着、トランセンドが2着でゴール板を駆け抜けました。日本競馬史上初となるドバイワールドカップ制覇——しかもワンツーフィニッシュという、これ以上ない劇的な結末でした。 レース後、勝ったミルコ・デムーロ騎手は馬上から天を仰ぎ、大粒の涙を流しました。彼の腕には喪章である黒いテープが巻かれていました。「日本のみんなを愛している。この勝利が少しでも励みになってほしい」 当時は私も、眠い目をこすりながらテレビの画面越しに観戦していました。2頭がゴールに飛び込んだ瞬間は、今でもけっこう鮮明に思い出すことができます。

ピーガガガの記憶とアスキーネットPCS、そして幻のNTTホスト

1992年3月25日、アスキーネットPCSがサービスを終了しました。 「パソコン通信」とは何か? といえば、1980年代半ばからインターネット普及前夜までを支えたネットワークのことです。当時の通信環境は今の常識ではまったく考えられないものでした。主流だったモデムの通信速度は1200bpsや2400bps。画面に文字が表示されるのをゆっくり目で追えるほどのスピードで、小さな画像ファイルを1枚ダウンロードする間にカップ麺ができてしまうレベルです(笑) それに加えて、当時の通信費もけっこうなハードルでした。今のような定額制ではなく、つないだ時間だけ電話料金がかかる完全従量制。3分10円の市内通話ならまだしも、市外のホストコンピューターにつなごうものなら通話料は跳ね上がります。月末に数万円の請求書が届き、親からカミナリを落とされる中高生が続出したものです。 そんな過酷な(?)通信環境のなか、とくに初期のころのユーザーから絶大な人気を集めていたのが、各地域のNTT営業所が開設していたホスト(BBS)でした。なんといってもホストの利用料が無料で、近場の営業所なら市内通話料金だけで遊べたのです。おもに学生やライトユーザーたちのオアシスとして、連日大盛況となっていました。 しかし、そこで「待った!」がかかります。 巨大な通信インフラを持つNTTが無料でサービスを提供し続ければ、民間企業による有料サービスの成長を阻害してしまうのではないか: こうした「民業圧迫」の批判を強く浴びることになり、大人気だった各NTTの無料ホストは、1989年6月ごろに一斉に閉鎖されるという劇的な最期を遂げました。 そんな群雄割拠のパソコン通信黎明期において、1985年にいち早く実験サービスを開始し、国内のパイオニア的存在だったのがアスキーネットです。NECの「PC-VAN」や「NIFTY-Serve」といった巨大ネットワークが台頭してくるなかでも、アスキーネットはとくにホビー色やマニアックな空気が漂う独特の立ち位置を築いていました。PCS(Personal Communication Server)はそんなアスキーネットが提供していたサービスのひとつで、おもにコアなユーザーたちに深く愛されましたが、時代の波のなかで1992年のこの日に運用を終えました。 その後の流れは存知のとおりです。...

壇ノ浦の合戦 (1185年)

元暦二(寿永四)年二月十八日(ユリウス暦で1185年3月21日)、屋島の奇襲に成功した源義経は兄・範頼と合流、平家を西に追撃します。この間、平家についていた熊野水軍、河野水軍が義経軍に加わり、水軍の勢力は一気に逆転しました。ちなみに、熊野水軍を率いる熊野湛増は武蔵坊弁慶の父親だという伝説もあります。 しかし、平家側にはまだ九州を地盤とする強力な水軍がついており、彦島を拠点に起死回生を図ります。 三月二十四日卯の刻(ユリウス暦で1185年4月25日午前6時ごろ)、田野浦に待ち受ける平家軍と義経軍との間で合戦の合図である矢合わせが始まりました。この前後、義経軍では、源義経と梶原景時との間で先陣をめぐってあわや同士討ちという場面もありましたが(軍紀がしっかりしている平家に対し、軍紀があってなきがごとき源氏)、昼ごろまでには平家軍主力と義経軍主力が約3kmを挟んで対峙、決戦が始まりました。 通説では、初めは平家軍が潮の流れに乗って義経軍を攻めたてたが、午後1時半ごろ潮流が変わると形勢逆転、源氏が潮の流れを利用して一気に平家を滅ぼしたとされています。 しかし、柳哲雄『潮の満干と暮らしの歴史』によると、このときの潮流はもっとも速い壇ノ浦沖でも1ノットに満たず、主戦場になった満珠、千珠島付近では0.2ノットに満たなかったそうです。ここで、1ノット=約0.5m/s=約2km/hです。 少し話が逸れますが、「1時間に10ノットの速さで……」というような表現をたまに見かけることがあります。例えば「月曜ドラマスペシャル」で1999年2月22日に放送された「水上署の源さん 東京運河-信州斑尾高原連続殺人事件」の中に次のようなセリフがありました。 事件当夜の潮の流れは毎時1.5ノット《ママ》,1時間に2km《ママ》…… ノット(knot)自体が速さの単位なので、“1時間に10ノット”の速さというのはまったくもって意味不明です。 ついでに上記のセリフについていえば、1.5ノットは1時間に2kmではなく約2.8kmです。 話を戻すと、0.2~1ノット弱程度の潮の流れでは、その影響が多少はあったにしても、決定的な要因とは考えられません。『平家物語』にもあるように、平家から源氏への武将の寝返りと、義経軍のとった非戦闘員である水夫を狙い撃ちにするという“卑怯な”戦術によるところが...

昭和を駆け抜けた名車、秩父路にて完結 (2014年)

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2014年3月23日、秩父鉄道1000系が引退しました。 秩父鉄道は、埼玉県北部の羽生駅から熊谷駅を経て、大自然が広がる三峰口駅までを結ぶローカル私鉄です。SLパレオエクスプレスが走っていたり、武甲山から採掘される石灰石を運ぶ長大な貨物列車が頻繁に行き交っていたりと、首都圏からけっこう近い距離にありながら、非常に個性的で魅力あふれる路線です。 さて、今回惜しまれつつ引退した秩父鉄道1000系ですが、これはまったくのオリジナル車両というわけではありません。その正体は、かつて日本国有鉄道(国鉄)が誇った通勤型電車のパイオニア「101系」です。 101系は1957年(昭和32年)に登場した国鉄初の「新性能電車」です。カルダン駆動方式を採用し、それまでの重くてうるさい吊り掛け式電車とは一線を画す、画期的な車両だったそうです。 101系の歴史を振り返ると、日本の鉄道史そのものと言っても過言ではありません。それまでの国鉄電車といえば、暗い茶色(ぶどう色)が当たり前でしたが、101系は中央線に目にも鮮やかなオレンジ色(オレンジバーミリオン)をまとってデビューし、当時の人々の度肝を抜いたのではないでしょうか? そんな高度経済成長期の東京を支えた101系も、後継車両の登場により徐々に第一線から退いていきます。しかし、1986年(昭和61年)ごろからおもに3両編成に組み直され、秩父鉄道へと譲渡されました。これが「秩父鉄道1000系」の始まりです。 秩父鉄道では独自のカラーリングで地元住民の足として活躍していましたが、晩年になるとファンサービスとして旧国鉄時代のカラー(オレンジ、スカイブルー、カナリアイエローなど)に復刻される編成が登場しました。 床下から響き渡るモーターの唸り音や、天井で首を振る扇風機といったレトロな車内設備は、昭和の通勤風景そのものでした。 オリジナルカラーと、最後まで残ったオレンジカラーです。 各所で迷惑行為を繰り返す「撮り鉄」ではないので(そもそも“鉄”ですらない)、こんな写真しかありません。 ここで忘れてはならないのが、秩父鉄道が走るエリアの過酷さです。沿線には「あついぞ!熊谷!」で有名な熊谷市があり、日本で最も暑いところを走る鉄道といっても過言ではありません。それにもかかわらず、この1000系編成は、秩父鉄道のほかの多くの3両編成と同様...

どこかにビューーン!で近場を引き当てた思い出 (2025年)

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JR東日本のポイント(JRE POINT)で新幹線に乗れる 「どこかにビューーン!」 、みなさんは試したことありますか? 4つの候補駅からランダムで1つが選ばれるという、水曜どうでしょうのサイコロの旅みたいなワクワク感があるサービスです。 4月に、このサービスを使って八戸まで行きます。4つのうち最遠の駅が当たりました。 このサービスを使うのは今回で2回目なのですが、この記事では初めて利用した前回(2025年5月)の旅を振り返ってみようと思います。当時の候補は、佐久平駅、大曲駅、水沢江刺駅、越後湯沢駅の4つ。心の中では「大曲か水沢江刺あたりで遠出したいなあ……」と期待していたのですが、結果は 佐久平駅 。4つの中で最も東京から近く、ぶっちゃけ、けっこうハズレ感がありました。まあ、移動が楽だからよしとしましょう。 第1日: 小諸城と絶品そば 2025年5月15日。さっそく新幹線に乗り込みます。車内はうわさどおり外国人乗客が多く、インバウンドの熱気を肌で感じました。その大半は軽井沢で降りていきました。 佐久平駅に到着後に向かったのは 小諸城 。 「小諸なる古城のほとり」といえば一般的には島崎藤村を思い起こすでしょうが、私の場合は岡本敦郎さんの名曲「小諸なる古城のほとり」が思い浮かびます。もちろん島崎藤村の詩に曲をつけたものなので、無関係ではありませんが。 そんなわけで名前だけは前から知っていましたが、まさか自分が実際に来ることになるとは思っていませんでした。ここで思いがけず「お城カード(日本100名城カード)」なるものの存在を知り、記念すべき1枚目をゲット。こういう収集要素って、旅行のモチベーションになりますよね。城内のそば屋で食べたおそばも、信州の空気のせいか絶品でした。 ちなみに、小諸駅にはしなの鉄道の115系車両(横須賀線色)が停車していました。 この日の宿は、佐久平駅から少し離れた小海線の中込駅から徒歩10分ほどの「佐久グランドホテル」。建物は少々古めかしいですが、窓から見下ろす千曲川の眺めは最高! ゆったりとした時間が流れていました。 第2日: 慌てて飛び乗った小海線と、熱狂のMリーグ 翌日はホテルで朝はゆっくり……するつもりだったのですが、ふと小海線の時刻表を調べて血の気が引きました。野辺山まで行ける列車の本数が、まったくといってい...

ホトケ谷に女性の変死体 (1990年)

おそらく1990年の3月22日、京都府相楽郡加茂町の通称「ホトケ谷」の谷底から、死後10日前後の女性の変死体が発見されました。 というのが、内田康夫センセの 『平城山を越えた女』 で描かれる最初の事件です。 ちなみに、死体が発見されたホトケ谷のある相楽郡加茂町は、今では木津川市加茂町になっているようです。 私は1992年に発行された講談社ノベルズ版で読んだことは覚えているのですが、内容はほとんど忘れているため、とくに語ることはありません。 この作品は1回だけ2時間サスペンスドラマ化されました。2013年5月10日に放送された「金曜プレステージ浅見光彦シリーズ第47弾「平城山を越えた女~見た者は呪われる!?盗まれた死を呼ぶ秘仏 古都に消えた女の謎…なりすまされた男の罠 哀しき親子の契りと業 血塗られた殺意とは」」です。 あらすじを、まだページが残っている 浅見光彦シリーズ 第47回 2013年5月10日(金)放送 平城山を越えた女 - フジテレビ から引用します。 ルポライターの浅見光彦(中村俊介)は、「旅と歴史」の取材で京都を訪れていた。浅見が大覚寺で写経をしていると、50歳くらいの年配の男性が現れて、文机に向かう女性の顔を1人1人確かめるように覗いていく。誰かを探しているのか、目当ての人でないと分かると、男性は残念そうな表情を見せて去って行った。その場にいた女性・阿部美果(遊井亮子)が、お坊さんに男性の来訪目的を聞いたところ、大覚寺によく写経に来る娘の行方が分からなくなって捜しまわっているという。 写経を終えた浅見が美果と話していると、さきほどの男性が歩いているのを見かけたので「お嬢さんを探しているそうですね」と声をかけた。男性は、数日間消息不明になっているので何か気付いたことがあったら連絡ください、と浅見に名刺を渡してその場を立ち去った。男性の名前は野平隆夫で、中興商事に勤める会社員だった。 「旅と歴史」を知っていた美果とすっかり意気投合した浅見。仏像巡りが趣味だという美果に、盗難にあって行方不明の“香薬師”という仏像があった新薬師寺に連れて行ってもらう。“香薬師”に興味を持ち始めた浅見。その後、美果とホトケ谷を散策していると偶然、女性が転落死した現場に遭遇。現場近くにいた刑事が無線で署に報告している内容を立ち聞きする浅見。すると被害者の女性は...

カイカヨソウとカイカセンゲン

2013年3月21日に浦和競馬場で行われた第59回桜花賞 1 、 netkeiba.com (リンク生きてます(笑))より: カイカヨソウ敗れて波乱、2番人気イチリュウが鮮やか逃げ切りV/桜花賞・浦和 > [地方競馬] 2013年03月21日(木)17時06分 21日、浦和競馬場で第59回桜花賞(3歳・牝・ダ1600m・1着賞金2500万円)が行われ、スタートを五分に出て道中後続を1馬身ほど離しての単騎逃げに持ち込んだ、的場文男騎手騎乗の2番人気イチリュウ(牝3、川崎・内田勝義厩舎)が、楽な手応えのまま単独先頭で4コーナーを通過。最後の直線に入ってもその脚衰えず、最後は後続を突き離して逃げ切り、2番手追走から粘り込んだ5番人気アステールネオ(牝3、船橋・佐藤賢二厩舎)に、2.1/2馬身差をつけ優勝した。勝ちタイムは1分41秒5(良)。 なお、このレースで単勝1.1倍と断然1番人気に推された、注目のカイカヨソウ(牝3、船橋・川島正行厩舎)は、道中中団外目を追走するも勝負処での反応悪く、さらに5馬身差の3着に追い込むのが精一杯。 3番人気ケンブリッジナイス(牝3、船橋・新井清重厩舎)は、さらに2馬身差遅れての4着《ママ》敗れている。 勝ったイチリュウは、父キングヘイロー、母キハク、その父アサティスという血統。前走・トライアルのユングフラウ賞(浦和・1400m)では、初コースでスタート悪く後方追走から追い込んで2着。本番のここは、スタートをポンと飛び出すとあとはマイペースのラップを刻み、最後の直線は鞍上・的場文男騎手の豪快なアクションに応えて、逆に後続を突き離す快勝で重賞初制覇。戦前は「1強」とされた見立てを軽々と覆してみせ、嬉しい(浦和)桜花賞馬のタイトルを手にした。 この年、 自称を含む 民間気象会社の桜の開花予想は外れまくっていました。 サクラの開花予想、修正しても修正してもそれを上回る早さで開花してる(笑) 見事な外れっぷり — Yagi Kei ( @yagikei ) March 21, 2013 そんなわけでこんな予想をする人もいました。 桜花賞、順当ならカイカヨソウなんだろうけど、今年の開花予想は面白いくらい外れまくりだから、人気薄の逃げ馬デイジーギャルの単勝でいってみる。いちおうローレル賞と桃花賞の勝ち馬なので...

地下鉄サリン事件15分前の中央線 (1995年)

実際にはすでに発生していたかもしれませんが、 地下鉄サリン事件 の速報が伝えられる直前、私が乗っていた東京行き中央線快速電車 (今はなき201系オレンジ電車) の車内で気分が悪くなった乗客が現れ、救護のためダイヤが遅れました。 日曜日と祝日に挟まれた月曜日だったこともあり、車内にはどこか冷ややかな雰囲気が漂っていました。 ちなみに、グモ (当時はまだなかったことば) が多発し 魔の中央線 とか 呪われた中野駅 とかよばれるようになるのはこの年の秋で、このときはまだ中央線もそれなりに平和でした。 地下鉄サリン事件のラジオでの第1報は 地下鉄丸ノ内線と日比谷線の車内で気分が悪くなった乗客が出たため、運転を見合わせている というようなものでした。 中央線の車内での“事件”の直後であったため、「今日は気分が悪くなる人間が多いな。日曜日と祝日に挟まれた月曜日だし、誰も仕事になんて行きたくないんだろう……」程度にしか思っていませんでした。 地下鉄での“事件”が未曾有の大事件であるらしいことがわかるのは、もう少しあとのことです。 なお、中央線ではちょうど1か月後、 国分寺ザリン事件 が起こります。いずれこのブログでも触れるかもしれません。

カーネル・サンダース、終の棲家に帰る!? (2010年)

1985年に 虎キチ とかいうキチガイどもに無残にも道頓堀川に投げ捨てられた カーネル・サンダース の残骸 が見つかったのは2009年3月10日のことです。 毎日新聞 (=リンク切れ)より: あの!? カーネル・サンダース像見つかる 道頓堀川 10日夕、大阪・ミナミの道頓堀川(大阪市中央区道頓堀2)の川底で、市の遊歩道整備工事の関連作業で潜っていたダイバーが、ケンタッキー・フライド・チキンのカーネル・サンダース人形の「上半身」(体長約1メートル)を見つけた。85年10月にプロ野球の阪神タイガースがリーグ優勝した際、興奮したファンらが川に投げ込んだまま行方不明となっていた人形とみられる。 当時、21年ぶりの優勝に酔ったファンが、主砲・ランディ・バース選手に似ていたことから、当時の道頓堀店前に置いてあった人形を胴上げし、今回の発見現場の東約200メートルの戎橋から勢い余って川に落とした。その後、ダイバーが捜索したが見つからずにいた。阪神は86年以降は日本一になれず、ファンの間で「カーネル・サンダースの呪い」と言われた。 人形は午後4時ごろ、河川工事で不発弾調査中のダイバーが見つけた。台船のクレーンで引き揚げると、作業員からは「死体やないか」との声があがったが、すぐに阪神ファンの現場監督らが「カーネルや」と叫んだ。通行人らも「オーッ」とどよめいたという。 人形は汚泥で激しく汚れている。河川管理者の大阪市が保管し、日本ケンタッキー・フライド・チキン社と取り扱いを協議する。11日朝も川底での作業が続くため「下半身」が見つかれば大阪市が保管する。 毎日新聞 2009年3月10日 21時25分(最終更新 3月10日 23時33分) 翌11日には「下半身」と「右手」も発見されました。 asahi.com (=リンク切れ)より: 「下半身」「右手」も道頓堀川で発見 カーネル人形 2009年3月11日9時45分 大阪・道頓堀川から24年ぶりに上半身が見つかったカーネル・サンダース像のものとみられる下半身と右手が11日午前、川底から発見された。1985年10月に阪神タイガースが21年ぶりにリーグ優勝した際、興奮したファンに投げ込まれ、行方がわからなくなっていた。左手と両足先がまだ見つかっていない。 この日朝、道頓堀川の歩道工事の作業員やダイバーら10人が、上...

史上初の女性将棋プロ棋士誕生 (1991年)

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1991年3月18日17時3分、森山(旧姓野田)香子三段が三段リーグ最終戦で雨宮秋彦三段を破り、女性として初めて四段昇段を決めました。 もちろん実話ではなく、ドラマ「 ふたりっ子 」での話です。 「ふたりっ子」は1996年10月7日~1997年4月5日に放送されたNHK連続テレビ小説、早い話がNHK朝ドラです。いろんな要素がありますが、メインはダブルヒロインのひとり、野田香子が将棋のプロ棋士を目指す――というストーリーです。 上図は、先手雨宮三段の▲8六飛まで。控え室で観戦していた香子の師匠・米原公紀永世名人でさえ「ありませんな」とさじを投げた局面です。同室に待機していた記者たちは「森山投了や~!!」と駆け出していきます。 だがしかし、そこはドラマ。緊迫感をあおるBGM「メイン・テーマ・ふたりっ子」とともにおもむろに放った香子の一手は誰の読みにもなかった △8一玉 。米原「ありましたな」 このあと、▲6一と △7二金 ▲8三銀 △8五歩 ▲7四金 △8三金 ▲同金 △3九銀のように進んだところで先手雨宮三段が投了、史上初の女性プロ棋士誕生となります。1991年3月18日17時3分、移動性高気圧におおわれたおだやかな夕方のことでした。 ところでこの場面、ノベライズ版では時刻がなぜか18時28分になっています。非常に気になったので以前理由を考えたことがあります。↓にも書きました(笑) http://www.notenki.net/labo/hutarikkoold.html これは日没時刻に関係があります。当時の関西将棋会館の緯度・経度を使って計算すると、1991年3月18日の日没時刻は18時08分となります(上のリンク先を書いたときは特定の場所の緯度・経度は簡単にはわからなかったのですが、今はネットで公開されている地図からすぐわかります。いい時代になりました(笑))。第89回の放送では、香子が雨宮を破ったときにはまだ西日が残っています。だから時刻を変えたのだと思います。17時03分というのはもしかするとこの場面を収録した時刻なのかもしれません。 さて、「8一玉」といえば、1972年の第31期名人戦七番勝負第2局での中原誠十段-大山康晴名人戦が有名です。 下図は111手目、先手中原の▲7三飛までの局面。 ▲7三飛と王手した時点で、控室は中原...

未来は寒い 雨の科学万博開幕 (1985年)

1985年3月17日、前日開幕した 科学万博-つくば’85 の一般公開が始まりました。 開場と同時に待ちわびた人がどっと駆け出したものの、次第に天気がくずれ、冷たい雨が降りだし、客足は鈍りました。会場近くに17,000台分用意した駐車場は終日ガラ空き、東京方面からの車が殺到するはずだった常磐道谷田部インター出口近くの駐車場もすんなり駐車できました。 午後からは雨脚が強くなり、気温は終日7℃前後。 その寒さの中、テクノコスモスの大観覧車には長蛇の列ができ、最大で1時間半の待ち時間がありました。その他、富士通館やくるま館、松下館、NEC館なども人気で、震えながら入館を待つ人々の列が続いていました。 路上のコンパニオンは規定により傘を持てないため、使い捨てカイロで寒さに耐えていました。 この日の入場者数は66,102人。ところが退場者数は81,657人。15,555人はどこから湧いてきたのでしょうか?(笑) ちなみに、翌18日には 星丸ランド の スタージェット が故障して24人を乗せたまま高さ28mで停止するトラブルがありました。また、26日には強風のため、テクノコスモスの大観覧車、KDDテレコムランドの観覧車、星丸ランドのスタージェットなどが一時運転を中止しました。

正解をうっかり板書 (2009年)

広島県の公立高校入試で正解の漢字がたまたま椅子に貼ってあった――という椿事を以前紹介しましたが( 椅子「投」げるな!! (2011年) )、今度は東京都立高校入試で試験官がウッカリ黒板に答えを書いてしまった――事件です。 asahi.com (=リンク切れ)より: 正解1文字、うっかり板書 都立高入試で約10校 2009年3月17日6時1分 東京都立高校入試で、受験生に試験時間などを知らせる際、国語の漢字書き取り問題に正答が導き出せるような黒板書きをした学校が10校程度あり、都教育委員会が、該当校に、全員に点数を与えるよう指示していたことが16日分かった。受験生が不平等とならないように、合格発表前に加算処置をした。 入試は2月23日にあり、最初の試験科目の国語で、「幹線道路をチュウヤの別なく車が行き交う」を、「昼夜」と漢字に直す問題があった。 都教委によると、この日は全日制173校、定時制55校で入試があったが、JR中央線の信号トラブルで、午前9時の開始予定を2時間繰り下げるなどの影響が出た。このため、試験時間変更を知らせる板書で「昼食」「昼休み」などと書いた学校が、少なくとも10校程度あったという。 試験終了後、採点する高校から「『昼』という字を板書してしまった」などの問い合わせがあった。都教委は、学校側に該当問題(2点)を全員正解にするよう通知した。都教委都立学校教育部は「試験では文字などを記した掲示をしないと慣例で運用していたが、今後はマニュアルの整備などを検討したい」としている。

川口浩探検隊デビュー (1978年)

1978年3月15日、テレビ朝日「水曜スペシャル」の「 20世紀の奇跡を見た!!ミンダナオ島人跡未踏の密林に石器民族は1000年前の姿そのままに存在した! 」で 川口浩探検隊 が鮮烈なデビューを飾りました。 川口浩探検隊は、尻尾から落ちてくるヘビや、動かないサソリ、無人島にいる人食いトラなどの敵と戦ったり、隊長自ら手をピラニアに噛まれたりしながら、タイヤの跡のある未開の密林やジャングル(同じや~)を半袖シャツで踏破しました。さらに、照明さんとカメラマンを先頭に洞窟やほらあな(これも同じや~)を探検して、常に新しい発見を持ち帰り、大成功をおさめて帰還したものでした。 探検は1985年11月20日放送の「珍獣王国ガラパゴス炎上!火災現場大捜査!」まで続きました。 以前閲覧できたテレビ朝日の公式サイトによると、川口浩探検隊シリーズは45回放送されたことになっていました。2回に分けて放送された探検があるため、探検は44回ということになります。全話収録されているかはわかりませんがDVDが出ていましたし、今は テレ朝動画 | 川口浩探検シリーズ 全話パック で視聴できるようです。 川口浩探検隊をヤラセなどといってはいけません。見る方もああいうものだということをわかった上で見ていたのです。 ああいうものだという気分にさせたのは、なんといっても 田中信夫 さんのナレーションの功績が大きいです。 NHKが1992年に放送したドキュメンタリー番組「奥ヒマラヤ禁断の王国・ムスタン」でヤラセが発覚したことがありました。もしナレーターに田中信夫さんを起用していれば、そんな問題も起こらなかったのではと思います。さらにタイトルを「ヒマラヤの奥に禁断の王国は実在した!!」とかにすれば完ペキだったかもしれません。もちろん川口浩探検隊を派遣すればいうことなしだったのですが、残念ながらそのころすでに川口浩隊長は故人となっていました。

2011年03月14日11時すぎ 悪質なデマが流れる

2011年03月14日11時すぎ、次のような“情報”が流れました。 福島県新地町の沖合で3mの波を確認、15分以内到達可能性 大船渡で11:00に5mの引き波を観測、大きな津波襲来のおそれ 明らかにデマでした。しかも単なるデマではなく、救助活動に支障をきたした可能性のあるきわめて悪質なデマでした。 私はNHKラジオ第1放送を聞いていたのですが、山崎という解説委員がこれらのデマを鵜呑みにして「ただちに避難してください」とかワメいていました。情けないことにあとでどうたらこうたらと言い訳していました。 ブログで反射津波だとドヤ顔で速報を書いた自称防災屋もいました。 デマの出所は今となっては不明ですが 1 、この日の11時01分ごろ東京電力福島第一原発3号機で爆発が起こり建屋が吹っ飛んだ直後のタイミングなので、一時的にせよ、そこから目をそらさせようとする目的だったのだと思います。これにどのような意図があるのかはわかりませんが。 直後にマスコミがちゃんと調査すればわかったと思います。 ↩︎

2011年03月13日17時58分 津波注意報解除

2011年03月13日。07時30分に発表中のすべての津波警報が津波注意報に切り替わっていましたが、同日17時58分、すべての津波注意報が解除されました。11日14時49分の津波警報・津波注意報の発表以来、51時間09分ぶりで津波警報・津波注意報が発表されている沿岸はなくなりました。 津波注意報 平成23年 3月13日17時58分 気象庁発表 津波注意報の解除をお知らせします ************** 本文 **************** 津波注意報を解除した沿岸は次のとおりです  北海道太平洋沿岸東部、北海道太平洋沿岸中部、北海道太平洋沿岸西部、  青森県太平洋沿岸、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、  千葉県九十九里・外房、伊豆諸島、小笠原諸島、三重県南部、和歌山県、  高知県、宮崎県 今後もしばらく海面変動が続くと思われますので、海水浴や磯釣り等を行う 際は注意してください 詳しくは津波予報(若干の海面変動)を参照してください ************** 発表状況 ************** 現在津波警報・注意報を発表している沿岸はありません *************** 解説 *************** <津波予報(若干の海面変動)> 若干の海面変動が予想されますが、被害の心配はありません (補足:平成19年12月1日から、従来の津波注意報(津波注意・津波な し)を、「津波注意報」、「津波予報(若干の海面変動)」、および「津波 予報(津波なし)」に区分しています。 予想される若干の海面変動の内容については、「津波予報(若干の海面変動 )」を発表してお知らせしています)

2011年03月12日09時47分発表 津波観測に関する情報

情報としての価値は今となっては皆無だと思いますが、当時の資料のひとつとして載せておきます。 津波情報(津波観測に関する情報) 平成23年 3月12日09時47分 気象庁発表 [各地の検潮所で観測した津波の観測値] 場所によっては、検潮所で観測した津波の高さより更に大きな津波が到達し ていることが考えられます 今後、津波の高さは更に高くなることも考えられます 12日09時45分現在、検潮所での観測値は次のとおりです 釧路       第1波 11日15時34分 (+) 2.0m          最大波 11日23時39分     2.1m 根室市花咲    第1波 11日15時34分 (-)  微弱          最大波 11日15時57分     2.8m 根室港      第1波 11日16時08分 (+) 0.3m          最大波 12日00時03分     0.7m 浜中町霧多布港  第1波 11日15時27分 (-)  微弱          最大波 11日22時19分     2.6m 浦河       第1波 11日15時19分 (-) 0.2m          最大波 11日16時42分     2.7m 十勝港      第1波 11日15時26分 (-) 0.2m          最大波 11日15時57分     2.8m以上 えりも町庶野   第1波 11日15時18分 (-) 0.1m          最大波 11日15時44分     3.5m 函館       第1波 11日16時11分 (+) 1.9m          最大波 11日23時35分     2.4m 苫小牧西港    第1波 11日15時37分 (-) 0.2m          最大波 11日17時30分     2.1m 苫小牧東港    第1波 11日15時40分 (-) 0.2m          最大波 11日16時17分     2.5m以上 白老港      第1波 11日15時40分 (-) 0.1m          最大波 11日16時01分     1.8m 渡島森港     第1波 11日15時56分 (-)  微弱          最大波 11日19時37分     1.8m 室蘭港      第1波 11日15時5...

2011年3月11日 最初の津波情報

まだ揺れている最中の14時49分, 津波警報 が発表されました。 津波警報・注意報 平成23年 3月11日14時49分 気象庁発表 ************** 見出し *************** 大津波・津波の津波警報を発表しました  東北地方太平洋沿岸、北海道太平洋沿岸中部、茨城県、  千葉県九十九里・外房、伊豆諸島 これらの沿岸では、直ちに安全な場所へ避難してください なお、これ以外に津波注意報を発表している沿岸があります ************** 本文 **************** 津波警報を発表した沿岸は次のとおりです <大津波>  *岩手県、宮城県、福島県 <津波>  北海道太平洋沿岸中部、青森県太平洋沿岸、茨城県、  千葉県九十九里・外房、伊豆諸島 これらの沿岸では、直ちに安全な場所へ避難してください 津波注意報を発表した沿岸は次のとおりです <津波注意>  北海道太平洋沿岸東部、北海道太平洋沿岸西部、青森県日本海沿岸、  千葉県内房、小笠原諸島、相模湾・三浦半島、静岡県、愛知県外海、  三重県南部、和歌山県、徳島県、高知県、宮崎県、種子島・屋久島地方、  奄美諸島・トカラ列島 以下の沿岸(上記の*印で示した沿岸)では直ちに津波が来襲すると予想さ れます  岩手県 *************** 解説 *************** <大津波の津波警報> 高いところで3m程度以上の津波が予想されますので、厳重に警戒してくだ さい <津波の津波警報> 高いところで2m程度の津波が予想されますので、警戒してください <津波注意報> 高いところで0.5m程度の津波が予想されますので、注意してください 蛇足ですが,前にも書いたように当時は 大津波警報 というものはなく,あくまで 大津波の津波警報 です。 ほぼ同時に発表された 津波到達予想時刻・予想される津波の高さに関する情報 : 津波情報(津波到達予想時刻・予想される津波の高さに関する情報) 平成23年 3月11日14時50分 気象庁発表 [津波到達予想時刻・予想される津波の高さ] 津波到達予想時刻および予想される津波の高さは次のとおりです 予報区名         津波到達予想時刻   予想される津波の高さ <大津波>  岩手県         既に津波到達と推測      ...

2011年3月11日 14時47分まで

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実は3月11日は父の(祥月)命日です。とくに何をするでもないですが、毎年心静かにすごすことにしています。 未明に最大震度3の地震がありましたが、とくに気にする人はいなかったでしょう。 地震情報(震源・震度に関する情報) 平成23年3月11日3時17分 気象庁発表 きょう11日03時14分ころ地震がありました。 震源地は、宮城県北部(北緯38.8度、東経140.9度)で、震源の深 さは約10km、地震の規模(マグニチュード)は3.5と推定されます。 [震度3以上が観測された地域] 震度3 宮城県北部 [震度3以上が観測された市町村] 震度3 栗原市 この地震による津波の心配はありません。 情報第1号 この日最初に目についたニュースは、これ。 氷点下4度、路上の全裸男が下着奪う  9日午後11時25分頃、札幌市北区屯田の路上で、歩いて帰宅途中だった女子高生が、後ろから歩いて近づいてきた全裸の男に押し倒され、下着などを奪われた。男は逃走しており、札幌北署が、強制わいせつと強盗事件として捜査している。  発表などによると、男は女子高生に「大丈夫。パンツを取るだけだから」と声をかけながら、約30メートルつきまとった後、下着とタイツを奪った。男は30~40歳で、身長約1メートル65の小太り。黒髪で眼鏡をかけていたという。  札幌管区気象台によると、事件当時、同市の気温は氷点下4度前後だった。 (2011年3月11日 読売新聞) 気象庁では次のような 津波予測技術に関する勉強会 が行われる予定でした。 時間的には無事に行われたと思いますが、報告書はつくられたのでしょうか。 ニュージーランド・クライストチャーチで救助活動を行っていた国際緊急援助隊(第3陣)がこの日で活動を終了し、翌日帰国することになりました。 NZ地震:日本の国際援助隊、捜索活動を終了 2011年3月11日 12時48分 更新:3月11日 13時7分  ニュージーランド・クライストチャーチの地震被災地で活動していた日本の国際緊急援助隊第3陣の折原茂晴団長は11日、記者会見し、同日活動を終え、12日に帰国の途に就くと明らかにした。これで日本の捜索支援活動は終了した。  生存者の救出ができなかったことについて、折原団長は「できることを全力でやったが誠に残念」と無念さをに...

前日 (2011年3月10日)

地震情報(震源・震度に関する情報) 平成23年3月10日3時21分 気象庁発表 きょう10日03時16分ころ地震がありました。 震源地は、三陸沖(北緯38.3度、東経142.9度)で、震源の深さは 約10km、地震の規模(マグニチュード)は6.2と推定されます。 [震度3以上が観測された地域] 震度3 岩手県沿岸北部 岩手県沿岸南部 岩手県内陸北部 岩手県内陸南部 宮城県北部 宮城県南部 宮城県中部 山形県村山 福島県中通り 福島県浜通り 福島県会津 茨城県北部 埼玉県南部 神奈川県東部 新潟県中越 [震度3以上が観測された市町村] 震度3 普代村 野田村 陸前高田市 釜石市 大槌町 盛岡市 矢巾町 遠野市 気仙沼市 涌谷町 栗原市 登米市 宮城美里町 大崎市 角田市 岩沼市 蔵王町 大河原町 宮城川崎町 丸森町 亘理町 石巻市 塩竈市 東松島市 松島町 利府町 中山町 福島市 郡山市 須賀川市 桑折町 国見町 相馬市 双葉町 南相馬市 猪苗代町 常陸太田市 宮代町 二宮町 南魚沼市 この地震により、日本の沿岸では若干の海面変動があるかもしれませんが、 被害の心配はありません。 情報第1号 地震情報(震源・震度に関する情報) 平成23年3月10日3時51分 気象庁発表 きょう10日03時45分ころ地震がありました。 震源地は、三陸沖(北緯38.4度、東経143.7度)で、震源の深さは 約10km、地震の規模(マグニチュード)は6.1と推定されます。 [震度3以上が観測された地域] 震度3 宮城県北部 宮城県中部 [震度3以上が観測された市町村] 震度3 涌谷町 栗原市 登米市 宮城美里町 石巻市 この地震により、日本の沿岸では若干の海面変動があるかもしれませんが、 被害の心配はありません。 情報第1号 海面変動に関する情報も発表されました。 津波情報(津波に関するその他の情報) 平成23年03月10日03時23分 気象庁発表 津波予報(若干の海面変動)をお知らせ...

あの2日前 (2011年3月9日) ~シーモンスの歌~

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地震情報(震源・震度に関する情報) 平成23年3月9日11時51分 気象庁発表 きょう09日11時45分ころ地震がありました。 震源地は、三陸沖(北緯38.3度、東経143.3度、牡鹿半島の東16 0km付近)で、震源の深さは約10km、地震の規模(マグニチュード) は7.2と推定されます。 [震度3以上が観測された地域] 震度5弱 宮城県北部 震度4 青森県三八上北 青森県下北 岩手県沿岸北部 岩手県沿岸南部 岩手県内陸北部 岩手県内陸南部 宮城県南部 宮城県中部 秋田県沿岸北部 秋田県沿岸南部 秋田県内陸南部 山形県庄内 山形県村山 福島県中通り 震度3 石狩地方北部 石狩地方南部 渡島地方東部 檜山地方 空知地方南部 胆振地方中東部 日高地方中部 十勝地方中部 十勝地方南部 青森県津軽北部 青森県津軽南部 秋田県内陸北部 山形県最上 山形県置賜 福島県浜通り 福島県会津 茨城県北部 茨城県南部 栃木県北部 栃木県南部 群馬県南部 埼玉県北部 埼玉県南部 千葉県北東部 千葉県北西部 東京都23区 神奈川県東部 神奈川県西部 新潟県中越 新潟県下越 山梨県東部・富士五湖 長野県中部 [震度4以上が観測された市町村] 震度5弱 栗原市 登米市 宮城美里町 震度4 八戸市 七戸町 六戸町 東北町 五戸町 青森南部町 階上町 おいらせ町 東通村 宮古市 久慈市 山田町 普代村 野田村 陸前高田市 釜石市 大槌町 盛岡市 二戸市 滝沢村 一戸町 八幡平市 矢巾町 紫波町 花巻市 北上市 遠野市 一関市 金ケ崎町 平泉町 奥州市 気仙沼市 宮城加美町 色麻町 涌谷町 南三陸町 大崎市 名取市 岩沼市 蔵王町 大河原町 宮城川崎町 丸森町 仙台宮城野区 石巻市...

八百屋お七のお墓の前に変死体 (1987年)

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追分殺人事件 1987年3月8日の朝、東京・文京区の円乗寺にある八百屋お七のお墓のところで男の変死体が発見された――というのが内田康夫センセの 『追分殺人事件』 で描かれている2番目の事件です。 ちなみに、最初の事件は軽井沢で起こっているので私のナワバリの外です(笑) 八百屋お七 については旧ブログでも取り上げているので、以下の記事をご参照ください。いずれ書き換えてこのブログに載せる予定です。 八百屋お七の墓が呼ぶ(お七火事) | Notenki Express 2014 八百屋お七火あぶりの刑 | Notenki Express 2014 これが八百屋お七のお墓です。 拡大すると、 原作では次のところに死体があったようです。 2004年に放送された 女と愛とミステリー 信濃のコロンボ事件ファイル5「追分殺人事件」 では、このお堂の前あたりで死体が発見されたという設定になっています。 一方、2017年に 月曜名作劇場 で放送された「 信濃のコロンボ4 軽井沢追分殺人事件 」 1 では、最初の写真にある、八百屋お七のお墓の真ん前で死体が発見されたことになっています。 原作では前日からこの日の未明にかけて雪が降っていたという描写があり、実際に気象庁の観測でも7日の午後から雪になりました。降雪の深さ合計は7日が3cm、8日が2cmとなっています。 7日09時の地上天気図です。 雪についてはどちらのドラマでもまったく触れられていません。女と愛とミステリー版では、雨が降っていたという設定に変更されています。 カップ酒を飲み終わったあと、雨を避けるように週刊誌を頭に乗せて、円乗寺のほうに走っていきました。 という高崎屋の女将さん(?)の証言もあります。 近くのおもなスポット お七のお墓以外にも、作品に登場する近隣のスポットを見てみましょう。 本郷追分 御成街道と中山道の分岐点です。 高崎屋さん 八百屋お七のお墓のところで死んでいた男が前日の夜、酒を飲んだ店です。本郷追分にあります。 誠之小学校 小学校自体は出てきませんが、増田亞梨沙先生の勤務先です。今でもお元気でしょうか?(笑) 三叉路、丸岡邸はいずこに? 八百屋お七のお墓から100mほどのところにあるという話ですが……。 女と愛とミステリー版では、...

椅子「投」げるな!! (2011年)

2011年3月7日に行われた広島県の公立高校入試での話です。 asahi.com (リンク切れ) より、 試験場に漢字の答え 椅子「投」げるな 広島の高校入試 広島県教委は8日、7日にあった公立高校入試の国語の試験で、試験場の椅子の背もたれに貼られた注意書きのラベルに、漢字書き取り問題の答えが含まれていた、と発表した。 県教委によると、問題(配点1点)は、「パラドックスをナげかけて」の「ナ」を漢字で書かせる内容だった。 しかし、全日制と定時制の計8校で「いすを投げたり、倒したりしないでください」とラベルが貼られた椅子152脚があり、後ろに座っている受験生から見える位置にあった。県教委は、8校の受験生1255人について、この問題を正解にすることにした。ラベルは椅子のメーカーが貼ったものだった。 県教委は試験前に、試験場内の掲示物を取り除くよう指示していたが、8校はそのまま試験を実施したという。 わざわざ「いすを投げたり、倒したりしないでください」という注意書きがあるということは、この地域の高校ではそういったことが頻繁に起きているということでしょうか? 東北地方太平洋沖地震 まであと4日……。

JR福島駅の発車メロディー決まる (2009年)

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2009年3月8日の 福島民報 (リンク切れ)より: 新幹線では「栄冠は君に輝く」 JR福島駅の発車メロディー決まる JR福島駅の発車メロディー選考会は7日、福島市のコラッセふくしまで開かれた。福島市出身の作曲家、故古関裕而氏の生誕百周年を記念し、新幹線ホームを「栄冠は君に輝く」、在来線ホームを「高原列車は行く」に決めた。4月11日の始発列車から採用する。 選考委員ら約20人が、市民からアンケートで募った候補曲の中から発車メロディーにふさわしい曲を選んだ。 「栄冠は君に輝く」は夏の全国高校野球選手権大会のテーマソングで知られていることやアンケートで最も多く支持を集めたことが要因。「高原列車は行く」は軽やかでテンポが良く、曲のタイトルも在来線ホームの発車メロディーとしてなじみやすいことが採用理由となった。 今年は古関氏の生誕百周年。発車メロディーで昭和の大作曲家が生まれ育った福島市を全国にPRしようと、福島青年会議所、JR福島駅、市が中心となって準備を進めてきた。 (2009/03/08 08:58) ずいぶん前から福島駅の新幹線ホームで「栄冠は君に輝く」が流れていたような気がするんですが、案外、最近のことなのですね。これより前は何の曲だったか、まったく覚えていません。 「栄冠は君に輝く」は聞いたことのない人はほとんどいないのではないでしょうか。作詞は加賀大介、作曲はもちろん古関裕而。 私は伊藤久男さんとコロムビア男声合唱団による、このオリジナルバージョンが好きです。 「高原列車は行く」については今回は触れませんが、古関メロディーの最高傑作と称える人もいるくらいの名曲です。 ところで、2020年に放送された連続テレビ小説(通称朝ドラ)「 エール 」の主人公のモデルは古関裕而さんと妻の古関金子(きんこ)さんでした。 放送前は、誘致を呼びかける次のような横断幕が福島駅前にありました。 放送が決まってからしばらくは外されていたのですが、放送が始まると次のような横断幕が登場しました。 この写真ではわかりにくいですが、横断幕の下にはハモンドオルガンを弾いている古関裕而氏の像があります。2009年8月11日に設置されたそうです。8時から20時まで30分ごとに古関メロディーが流れるそうです。 「エール」に関連して、少し余談です。大した話では...

まあるいみどりのやまてせん

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1971年3月7日、山手線の呼び方が「やまてせん」から「やまのてせん」に変更されました。 山手線といえば「 ヨドバシカメラの歌 」です。いつのころからか歌詞が「まあるいみどりのやまのてせん~♪」にかわってしまいましたが、最初のころの「まあるいみどりのやまてせん~♪」のほうがしっくりきますよね。字余りにならず、メロディーへの乗り方が自然なんですよね。 このCMソングの原曲として知られているのは、アメリカの「 リパブリック讃歌 」です。もともとは19世紀の南北戦争のときに、北軍の行軍歌として歌われていたものでした。 このメロディーにはさらに深い歴史があります。リパブリック讃歌が誕生する前、おもに北軍兵士たちの間で歌われていたのが「 ジョン・ブラウンの屍 」(John Brown’s Body)という行軍歌でした。ジョン・ブラウンは奴隷制廃止のために武装蜂起して処刑された実在の活動家で、彼の死を悼み、その遺志を継ぐ兵士たちの間で自然発生的に歌われるようになったそうです。 その後、この「ジョン・ブラウンの屍」のメロディに、より高尚な新しい歌詞が乗せられ、「リパブリック讃歌」として広く知られるようになりました。日本では「ごんべさんの赤ちゃん」の替え歌などでもおなじみですが、もとをたどると、けっこう血生臭く生々しい歴史を持った曲だということがわかります。 ところで、作業用のBGMとして聞いていた『心と耳にのこるCMのうた』というCDで、ちょっと首をかしげることがありました。なぜか「ともだち讃歌」が、まるでヨドバシカメラの歌の原曲であるかのように扱われているんですよ。 「ともだち讃歌」もリパブリック讃歌(あるいはジョン・ブラウンの屍)をベースにした数ある替え歌のひとつにすぎないのに、それを直接の原曲とするのはいくらなんでもおかしいですよね? 何か理由があるんでしょうか。 レコード会社の都合? ちなみに、幼稚園や小学校などで「ともだち讃歌」を歌わされるとき、「まあるいみどりの……カメラはヨドバシカメラ~♪」と歌うよい子のみんながいるらしいですね(笑) 最後に、実は今思い出したのですが、この替え歌を聞いたことがある人、いらっしゃいますか? エチガワ製菓の アイスクリーム みんな大好き 白いやつ ハーゲンダッツを 買ったなら 一族郎党 さらし首~♪...

ホントはこわい「アテンションプリーズ」

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アテンションプリーズ は1970年にTBS系列で放送されたドラマ「アテンションプリーズ」の主題歌です。作詞:岩谷時子、作曲・編曲:三沢郷、歌:ザ・バーズ。 2006年に放送されたリメイク版ではないです。 ドラマの内容についても書きたいことはありますが、はっきりと覚えているわけではないので、ここでは割愛します。興味のある方はググってみてください。 もっとも、なにしろ古いドラマですし、最近は再放送もほとんどされていないようなので、それほど情報は出てこないと思います。ただし、デジタルリマスターされ、DVD-BOXも発売されているようです。 聞くと前向きな気持ちになれる、単純にいい曲です。最近の“主題歌”にはこういう曲はめったにありませんねぇ。 訳のわからん歌も多いし。 ただ、実はかなり怖い歌なんです。 ♪陽に光り展ける波を 今私は見る アテンション・プリーズ アテンション・プリーズ 揺れ動く愛の雲間を ひとすじに つづく私のエアルート エアルート 恋人はここにもいないかもしれない でも私は飛ぶ 私は飛ぶ 私は飛ぶ 飛ぶの 1番の歌詞にはとくに怖いところはありません。テレビ版は1番しかないので、テレビを見ていて怖さを感じた人はひとりもいないでしょう。 ところが、レコード版にある2番はいきなりの恐怖です。 ♪朝やけの花粉を浴びて 今私は着く アテンション・プリーズ アテンション・プリーズ …… 花粉を浴びるんですよ!! 1970年ごろは、花粉症がまだそれほど一般化していなかったと思われるので、こんな表現でもよかったのでしょうねぇ。

飛鳥山スカイラウンジ殺人事件 (1987年)

1987年3月5日、飛鳥山公園のスカイラウンジで19歳の東大生・矢部富美子が主婦の井上典子を刺殺する――という事件が起こりました。(島田荘司『展望塔の殺人』) 奇しくも(!?)今日、3月5日は作中でこの事件が発生した日です。もちろんこれはフィクションですが、舞台となった「スカイラウンジ」は、かつて北区の飛鳥山公園に実在した回転式展望タワーです。 1970年に開業したこのタワーは高さ約30m。キノコやUFOのような円盤型の展望室が、ゆっくりと1周するしくみでした。地元民以外にはまったく知られていない施設かもしれませんが、当時はけっこうな人気スポットだったようです。 私は上ったことがありませんが、東北新幹線や東北本線が上野駅を出てしばらくすると、左手に展望タワーの大きな「北区飛鳥山公園」の文字が見えたものでした。 とくに春は足元に桜の絨毯が広がり、上空からのお花見は絶景だったとのこと。しかし老朽化などの理由で1993年に解体され、現在は跡形もありません。 今では小説の中にしか当時の面影がなく、ひとり思い返すと少し寂しい気もしますね(笑) 飛鳥山にお越しの際は、タワーがあった空を見上げて昭和のミステリーに思いを馳せてみてはいかがでしょうか? 《参考文献》島田荘司, 展望塔の殺人~吉敷竹史シリーズ7~(光文社文庫). 光文社, 1991年.

警部、特急「さくら」で事件ですよ!! (1982年)

1982年3月5日、帰省先の九州から上りの特急「さくら」で帰京途中の警視庁の刑事が、通路で若い女性の死体を発見した直後、後頭部を殴られ気絶。その後、死体が車内から消える――という事件が起こりました。(西村京太郎『特急さくら殺人事件』) さて、偶然にも(!?)今日と同じ3月5日のできごとからはじまるこの作品ですが、今の若い世代だと「さくら」と聞けば九州新幹線を思い浮かべる人が多いかもしれませんね。 でも、当時の特急「さくら」は東京と長崎や佐世保を結ぶ ブルートレイン (寝台列車)でした。 夜の闇を駆け抜ける寝台列車といえば、外部と遮断された動く密室。トラベルミステリーには まったく 欠かせない舞台でした。 私はブルートレインには乗ったことがありませんが、以前このブログで紹介したとおり、寝台急行「銀河」には何度か乗ったことがあります。 寝台急行「銀河」のA寝台で殺人 をご参照ください。 今では夜行列車は おもに 豪華なクルーズトレインになってしまいましたが、昔のブルートレインが持っていた独特の哀愁や旅情は、今のピカピカの列車ではなかなか味わえないでしょうねえ……。 今夜は久しぶりに、昔の2時間サスペンスでも見返してみようかと思います。 《参考文献》西村京太郎, 特急さくら殺人事件 (講談社文庫). 講談社, 1984.

今日は天敵の日

今日は 二十四節気 の 啓蟄 です。現在、啓蟄は太陽が黄経345°を通過する時点とされており、今年は正確には3月5日の22時59分にあたります。一方で、二十四節気は本来「期間」を表すという考え方もあり、それに従えば今年は3月5日から 春分 の1日前の3月19日までが啓蟄ということになります。 啓蟄は、 極寒の時伏蔵したる諸虫戸を啓出(ひらきいづ)る という意味で、これまで土の中にもぐっていた虫たちが姿を現す時期のことです。 節足動物の類が死ぬほどきらいな私にとっては、啓蟄はまさに 天敵の日 です。ただ、この世でいちばんきらいな昆虫であるセミはまだ土の中なので、そのぶん助かってはいるのですけれど……(笑) 啓蟄を過ぎるころから、太平洋側の地方では雷が発生しやすくなるため、 虫出しの雷 とよばれています。日差しが強くなり、積乱雲を発達させるだけの上昇気流が生じるようになるということでしょう。この雷に虫が驚いて出てくるというわけです。 しかし、雷に驚いた人間が家から外へ飛び出すことがまずないのと同じように (地震の際に、慌てて外へ飛び出そうとしてケガをする人の話はよく聞きますが) 、虫も雷に驚いたとしたらかえって地中へ引っ込む気がするのですが……。地中から出てくるとすれば、微妙な地電流の影響や、振動などを考えたほうが自然かもしれません。 ちなみに調べてみると、太平洋側で雷が多くなるのは、啓蟄のころというより4月に入ってからの地域が多いようです。 一方、日本海側ではこの時期から雷が少なくなります。雷が少なくなるから、小動物たちも安心して地上に出てくるのでしょうか。

ハイセイコーの“都落ち”

1973年3月4日、 ハイセイコー が中央競馬に颯爽とデビューしました。 この日、南海上の移動性高気圧におおわれて午前中は晴れていましたが、日本海と九州の南海上に低気圧が進んできたため、午後からくもってきました。しかし、気温は平年並みで、競馬観戦にはまずまず。 こんな陽気も手伝って、第10回弥生賞が行われる中山競馬場には、ハイセイコーをひと目見ようと前年の有馬記念より多い12万人を超える大観衆が詰めかけました。スタンドには観客が溢れ、金網を越えて観客が芝コースにこぼれ落ちたという伝説は本当にあったことで、映像にも残っています。 -------------------------------------------------------------------- 1973年 3月 4日(日) 1回中山4日 天候: 曇  馬場状態: 良 10R 第10回報知杯弥生賞 4歳・オープン 芝 1800m  10頭立 -------------------------------------------------------------------- 着枠 馬 馬名        性齢 騎手   斤量 タイム 人   廐舎 -------------------------------------------------------------------- 1 6 6 ハイセイコー    牡 4 増沢末夫 55 1.50.9 1 鈴木勝太郎 2 5 5 ニューサント    牡 4 伊藤正徳 55 1 3/4  6 尾形藤吉 3 4 4 キクカギョクリュウ 牡 4 東信二  55 1 1/2 10 境勝太郎 4 8 9 カミノテシオ    牡 4 加賀武見 55 アタマ 3 高橋英夫 5 1 1 ベルロイヤル    牡 4 矢野照正 55 1 3/4  8 阿部正太郎 6 2 2 タケデンパワー   牡 4 岡部幸雄 55 クビ  7 稲葉秀男 7 3 3 タケホープ     牡 4 嶋田功  55 2    4 稲葉幸夫 8 7 7 ナスノオーカン   牡 4 田村正光 55 3/4   9 稲葉幸夫 9 8 10 クリアスカ     牡 4 郷原洋行 55 9    5 吉野勇 10 7 8 ユウシオ      牡 4 横田吉光 55 2 1/2  2 菊池一雄 ...

東京地方に史上初の大雪警報 (1969年)

1969年3月4日の東京。前日夕方に発表されたこの日の天気予報は、「北ないし東の風、曇のち午後から一時雨」でした。 ところが、予報に反して夜明け前から雪が降り出し、午前9時には2cm積もりました。この段階ではまだ気象庁は大雪になるとは予想しておらず、11時30分になってやっと大雪注意報を発表しました。このとき、積雪はすでに9cmに達しており、2月27日の7cmを上回っていました。 積雪が15cmに達した14時には、ついに東京地方に大雪警報が発表されました。東京地方に同警報が発表されたのは、これが史上初のことでした。 最深積雪は3月としては観測史上第2位(当時。現在では第3位)の19cmに達し、まったくの不意打ちの大雪になりました。実はたった5日前の2月27日も不意打ちの雪に見舞われており、 新幹線より雪に弱い気象庁 のレッテルが定着することになります。 不意打ちだろうがなんだろうが、東京に雪が積もればお決まりのパターンが待っています。鉄道は大混乱、道路は渋滞、人はスッテンコロリン。 さらにこの日は、国立大学の一期校の入試の日でした。大きな影響を受けたのは間違いないですが、当時の大学はちょうどゼンキョートーだかなんだか、今となっては意味不明の団体が入試反対を叫んで暴れていたころで(東大の入試が中止になったのもこの年)、雪が降らなくても混乱していました。 まさか8日後にこの日を上回る大雪になるとは……。

北信濃絶唱 ~昭和のうた~

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1972年1月4日~3月3日 1 に放送された 花王愛の劇場「北信濃絶唱」 の主題歌です。歌は 野路由紀子 さん。作詞は西沢裕子、作曲は渡辺岳夫。西沢裕子さんはドラマの原作者でもあります。 イントロがすばらしいですね。 テレビバージョンはこちら。ドラマの冒頭の一部も入っています。 北信濃絶唱 OP ドラマはざっと次のようなストーリーです。 北信濃絶唱|ドラマ・時代劇|TBS CS[TBSチャンネル] より引用します。 日本アルプスの山々に囲われ、千曲川が流れる北信濃に生まれ育った北上圭子(島かおり)は、アルバイトの花の配達途中に、東京から来た画家志望の青年・笹村英二(大林隆介)と知り合った。圭子には、最近祖父の久造(河野秋武)と芸者をしている姉の幹子(藤田佳子)との争いが悩みの種だった。幹子には5年前に別れた愛人の子章太(小山渚)という子供がいたが、新しい愛人が出来たためこのところ外泊することが多く、それが久造の怒りをかっていた。圭子には悲しい愛に生きる幹子の心も分かるし、久造の怒りも納得でき、それだけにかえってつらかった。英二は素朴で明るい反面、こうした悩み事をかかえながら生きる圭子の姿に何度か接しているうちに、いつしか圭子が忘れられぬ存在になっていった。そしてある日、家に帰らぬ母・幹子をしたって家出をし迷子になった章太を、英二が助け出したことから、英二と圭子の仲が急速に近くなっていった。やがて2人は愛し合うようになるが、様々な障害が立ちはだかる…。 舞台は北信濃の 戸倉上山田温泉 です。このあたりですかね。 もちろん行ったことはありませんし、私自身このドラマをまったく見たことがありません。ストーリーについても、上記の引用以上のことは知りません。 歌のイメージやストーリー、ドラマのタイトルなどから想像すると、最後は残念ながら心中するんでしょうね。 TBSチャンネルやTBSチャンネル2で再放送されるようなことがあれば見てみたいとは思いますが、悲劇が嫌い――とくに心中モノが嫌いな私にとっては怖いもの見たさに近いかもしれません。 つまり、54年前の今日が最終回にあたります。 ↩︎

江戸の桜田 雪が降る (1860年)

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万延元年三月三日の上巳の節句、早い話がひな祭り、頃は五ツ半時(午前9時ごろ)、あかりをつけましょ ぼんぼりに――ではなくて、総勢60余人からなる大老 井伊掃部頭直弼 の行列が桜田門外にさしかかったとき、お花をあげましょ 桃の花――でもなくて、18人の水戸浪士らが行列に襲いかかり、五人ばやしの 笛太鼓――いいかげんシツコいですが、早い話が大老を暗殺しました。世にいう 桜田門外の変 です。 赤穂浪士 の討ち入りや 二・二六事件 の襲撃のときは実際には雪は降っていなかったのですが、このときは実際に雪が降っていました。と、見てきたようなことをいう(笑) 60余人ものお供の者がついていながら、大老をむざむざ討ち取られてしまったのは、すべてが戦闘員というわけではなかったこともあるでしょう。 しかし、もっとも大きな理由は、この日は朝から雪が降っていたため、雪水がしみるのを防ぐために刀に「柄袋(つかぶくろ)」をつけていたことだといわれています。これでは刀をなかなか抜くことができません。 さらには、テロ集団がまさか白昼堂々と襲ってくることはないだろうという、油断というより固定観念のようなものがあったのかもしれません。 万延元年三月三日は今の暦では1860年3月24日にあたります。晩雪ではありますが、現在の平年値でも東京の終雪は3月9日、3月の降雪日数は1.4日ですから、とくに珍しい現象というほどではありません。ちなみに3月の最深積雪は1969年に記録した30cmです。 なお、藤原ハカセによると、この日赤い雪が降ったといって江戸の人は騒いだそうです。(1925年1月31日付東京朝日) 井伊掃部頭が桜田門外で暗殺された時にも赤い雪が降つたと云つて江戸人が騒いださうだ 桜田門外の変のあと、文久二年正月十五日に老中・安藤信正がやはり水戸浪士らに襲われる 坂下門外の変 が起こりました。 このときは老中側のテロ対策が抜かりなかった……というよりも、襲撃側の計画がかなりズサンだったらしく、老中は軽傷を負っただけで、襲撃側が全滅しました。 この日は現在の暦では1862年2月1日にあたり、「時期から見て雪が降っていたかも……」と思ったのですが、どうやら雪が降っていたという記録はないようです。 これは今の桜田門。“内堀ランナー”の通り道になっています。 ちなみに、筆者は桜田門と...

「どこかにマイルのハズレ枠」が最高だった件〜温泉に入らない松山旅行のすゝめ〜

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日程:2026年2月26日(木) 〜 2月28日(土) JALの「どこかにマイル」(羽田⇔松山)、4つの候補の中で唯一、過去に行ったことのある松山が見事に当選しました(笑)。未踏の地を期待するシステムの性質上、ある意味で「ハズレ枠」を引いた気分です。松山といえば、約30年前の社員旅行で連れて行かれた記憶しかなく、どこに何があるのか印象もすっかりアイマイになっていました。というより、まったく覚えていない――と言った方が正確かもしれません。 しかし、自分の足で歩く現在の松山は、まったく別の街でした。今回の旅のルールは、松山=道後温泉のイメージを捨て、「温泉には入らない(道後は建物を見るだけ)」、「食べるために行列には並ばない(食事はサクッと。または部屋飲み)」、「荷物は最小限、お土産も無理に買わない」の3つ。早い話が、鉄道(伊予鉄)と歴史建築、そして「何もしない贅沢な時間」にフォーカスした、2泊3日の一人旅スタイルです。 【1日目】約30年のタイムスリップと「部屋飲み」の極意 宿泊先は大手町エリアの「ホテルマイステイズ松山」。ここのキャッスルビューの部屋が最高でした。 ホテルのすぐ近くには、全国でも希少な路面電車と郊外電車が直角に交差する 「ダイヤモンドクロス」 があります。鉄道ファンなら一度は訪れたい聖地。部屋から交差地点そのものは見えませんが、すぐ下から響いてくるガタンゴトンというジョイント音をBGMにするのは、かなりの贅沢です。 夕食は並ばずに、近くのセブンイレブンで調達したつまみと酒で。窓の向こうにはライトアップされた松山城が堂々と鎮座しています。名城を独り占めしながらの「キャッスルビュー部屋飲み」は極上です。 【2日目】雨を味方につける、名城・建築・鉄道巡り 2日目は雨予報。雨が本格化する前に、ロープウェイでサクッと松山城へ向かいます。現存12天守の風格と見ごろの梅を楽しみ、昨今ブームの「城カード」と「御城印」をきっちりゲットしました。 昼食はアーケード街「大街道」で、もちろん並ばずにサクッと済ませます。その後は雨に濡れない 「坂の上の雲ミュージアム」 (安藤忠雄建築)と洋館「萬翠荘」を見学。 午後は伊予鉄の郊外電車に揺られ、海沿いの 「梅津寺(ばいしんじ)駅」 へ向かいました。ここはちょうど約30年前の大ヒットドラマ『東京ラブス...