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巌流島の決闘? (1612年)

慶長十七年四月十三日(グレゴリオ暦で1612年5月13日)、佐々木小次郎と宮本武蔵が舟島(現在の巌流島)で決闘した――とされています。 小次郎打ち負け蘇生す。然るに武蔵の弟子等隠れ居て、後より寄り集まり小次郎を打ち殺す。 ~『沼田家記』より(要約) この文書によると、決闘で武蔵は小次郎(ここでは名前は明記されていませんが)を打ち倒したものの、致命傷には至っていませんでした。しかし、武蔵が島を去った後、隠れていた武蔵の弟子たちがゾロゾロと現れ、倒れていた小次郎をよってたかってなぶり殺しにしたというのです! これが事実だとすれば、決闘というより 計画的な暗殺事件 です。 とくに、武蔵は兵法者として「勝つこと」に異常な執着を持っていた人物ですから、手段を選ばなかったとしても不思議ではありません。彼が書いた『五輪書』には、精神論ではなく徹底した実戦的合理主義が貫かれています。相手を出し抜き、多勢で無勢を確実に仕留める。それが戦国の世のサバイバル術だったのでしょう。 さて、真実はどうだったのでしょうか? 当時の舟島には監視カメラもドライブレコーダーもありません。そこで、そうです!! 名探偵・浅見光彦 の登場です!! ……と言いたいところですが、現在から江戸時代初期に行くにはタイムマシンが必要です。ここはやはり ドラえもん にお願いしましょう(もちろん現在の声優さんではなく、大山のぶ代さん版のドラえもんで)。 「巌流島殺人事件」の謎を解くためには、警察の鑑識課にも同行してもらいたいところです。『科捜研の女』の榊マリコがいれば、木刀の打撃痕から当時の武蔵の筋力や、倒れていた小次郎にとどめを刺した凶器の特定まで、最新科学でバッチリ解明してくれるはずです。「科学は嘘をつかないわ」と言いながら、武蔵の弟子たちを論破するマリコ……けっこう見ごたえがありそうです。 そういえば、時代劇ファンとしては『水戸黄門』の御一行に偶然通りかかってほしい気もします。 「助さん、格さん、こらしめてやりなさい!」の声とともに、印籠を出して武蔵の弟子たちをひれ伏させる。でも、これだと1612年という時代設定的に、水戸光圀公はまだ生まれてもいないので、設定に無理がありますね。やはりここは、将軍さまみずから成敗する『暴れん坊将軍』……と思いきや、これも吉宗の時代なのでずいぶん先の話になってしま...

ガッツポーズの日

4月11日は ガッツポーズの日 ということになっています。 1974年4月11日、日大講堂で行われたWBC世界ライト級タイトルマッチで、挑戦者 ガッツ石松 が王者ロドルフォ・ゴンザレス(MEX)を8回KOで破り、タイトルを奪取しました。このときの勝利のポーズに対し、ある新聞記者が「ガッツポーズ」と名づけたのが最初とされています。 しかし、梅花女子大学の米川明彦教授によると、ガッツ石松の勝利のポーズの1年以上も前、「ボウリング雑誌 『週刊ガッツボウル』 」に「自分だけのガッツポーズつくろう」というコーナーが存在していたのです。ついでのときに国会図書館で確認しました。 何事につけ、その起源を特定するのは難しいものです。 ガッツ石松のタイトル奪取についていえば、ガッツポーズよりも「幻の右」の方が有名だったと思います。 ボクシング今日は何の日 ガッツ石松が“幻の右”で世界王者に | Boxing News(ボクシングニュース) によると、 最初にダウンに追い込んだパンチは“幻の右”と呼ばれた。石松曰く「ワンツーなんだけど、左を出してから右を出すまでがものすごく速いから、相手には右が見えない」。だから“幻”というわけだ。 とのことです。

あなたの夢は今こそかなう (1966年桜花賞)

タイトルは故・志摩直人さんの詩の一節より。 1951年4月22日、阪神競馬場での第11回桜花賞。 クモワカ は向正面で馬群に包まれる不利もあり、 ツキカワ の逃げ切りを許して2着に敗れました。このレースについては天候が「曇」、馬場状態が「良」であったことと、全着順や簡単な展開がわかるだけで、それ以上はわかりません。当時の「優駿」にも掲載されていません。 クモワカは翌年の夏までに通算11勝をあげ、秋に備えて休養中のところに、突然 伝染性貧血症 と診断されました。この病気は現在でも有効な治療法はないようです。 伝染性貧血症(正確には“馬伝染性貧血”)は家畜伝染病予防法第17条に、 都道府県知事は、家畜伝染病のまん延を防止するため必要があるときは、次に掲げる家畜の所有者に期限を定めて当該家畜を殺すべき旨を命ずることができる と規定されている病気のひとつで、これに基づいてクモワカの薬殺命令が下されました。 ところが、クモワカはなぜか回復してしまい 1 、経緯は文献によって違うのですが、いずれにしても北海道にひそかに渡り、 丘高 という名前で繁殖牝馬となって何頭かの仔を産みました。しかし、“死んだ”はずの馬が産んだ仔の血統登録は認められず、ここに血統登録を求める裁判が起こされました。一審ではクモワカ側の負けとなりましたが、控訴審で和解が成立し、1963年9月から登録が認められるようになりました。この年に生まれた 玲祐 が後のワカクモです。 そして1966年4月10日、第26回桜花賞――。 前日からの雨は朝には上がり、青空が広がりましたが、馬場状態は稍重、4角の内側はかなり悪くなっていました。 レースはキヨズキが逃げ、ワカクモは中団のやや前あたりにつけました。3角から内目を通って徐々に追い上げ、4角では他馬が馬場の悪い内を嫌って外をまわる中、内をついて先頭に躍り出ました。一時は後続に3馬身ほど差をつけたものの、さすがに最後は脚いろが鈍り、外からヒロヨシ、さらに大外からメジロボサツがきわどく迫ったところがゴールでした。 ---------------------------------------------------------------- 1966年 4月10日(日) 1回阪神8日 天候: 晴 馬場状態: 稍重 10R 第26回桜花賞 4歳...

花魂を驚かして柳楊を壓す 交通機關を奪て勤人を泣す (1908年)

この『南総里見八犬伝』あるいは『水滸伝』風のタイトルは、1908年4月10日付の東京日日新聞に使われていた見出しです。 一昨八日夜十時頃より滿都花なる今日この頃奇しくも降り出せる妖雪《ゆき》は終夜《よもすが》ら花魂を驚かして降りしきり明けて昨朝となるも尚降り歇《や》まず春の泡雪と思ひしは違ひて世は白妙の目の行く限り白皚々たるのみか量《かさ》さへ尺と積もりて寒中にも都には容易《たやす》く見られぬ大雪 そして、 されば其が爲めの被害も少からず先づ第一に惜しまるゝは今を盛りの櫻花にて都大路は是よりなる各所の櫻花は枝もたわゝの雪に壓せられて紅褪せ白散じて見るも無殘の姿痛々しく…… とあり、桜の被害もかなり大きかったようです。 東京の積雪は20cmで、今でも4月の最深積雪となっています。 この日の雪は晩雪という点では過去数十年なかった大雪だったらしく、東京日日新聞でも東京朝日新聞でも桜田門外の変を引き合いに出しています。当時はまだ江戸末期の動乱の記憶が残っていたんですね。桜田門外の変の際の雪については 江戸の桜田 雪が降る (1860年) をご覧ください。 4月10日付の時事新報には「氣象臺設置以來三十二年間」にあった4月の降雪日が載っています。 明治十三年四月三日 同十八年 1 四月二日 同三十五年四月十日 同四十年 2 四月一日 いずれも積雪には至らなかったようです。 なお、この雪の影響で、11日から開催予定だった目黒競馬場での春季恒例競馬は12日からの開催に変更になりました。私の知る限り、4月の競馬の開催中止はこれがはじめてで、これ以降は 2010年4月17日の福島競馬 まで約100年間、中止の記録はありません。 ちなみに、福島競馬は2013年4月21日にも雪のために中止になっています(詳しくは 福島競馬がまたまた雪のために中止 | Notenki Express 2014 をご覧ください)。 4月10日付の読売新聞では“十九年”になっています。 ↩︎ 4月10日付の読売新聞では“四十八年”になっていますが、明らかに間違いですね。 ↩︎

NHKがモータースポーツをはじめて生中継 (1988年)

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40年くらい前まで、NHKはモータースポーツをスポーツと認めていなかったそうです。イロモノ的に扱ったり、1977年に富士スピードウェイで開かれた日本GPでの観客死亡事故を伝えたりすることはあっても、ニュースでスポーツとして取り上げることはなかったようです。当然、生中継などすることはありえませんでした。テレビの草創期にはプロレスを生中継したこともあるというのに……。 ところが時代の流れか、中島悟がロータスに加入したころから風向きが変わり、1987年シーズンの開幕前に子ども向け情報番組(「600こちら情報部」だと思ったら違ったようだ)でF1特集が企画され、中島悟が電話出演したりしました。 そして1989年4月8日、NHKが鈴鹿サーキットから 世界スポーツプロトタイプ選手権(WSPC) 第1戦の予選を中継することになりました。しかし――。 当初は13時からの公式予選2回目を生中継する予定だったようですが、日本の南海上を通過中の低気圧に伴う大雨のため、予選2回目は翌日、決勝の朝へ延期され、マシンの走行の生中継も事実上、翌日に持ち越されることになりました。 そのような経緯もあり、初の生中継が行われたのは4月9日です。決勝レースでは ザウバー・メルセデス がワンツーを決め、この後しばらくメタリックシルバーのC9がWSPCを席巻することになります。WSPCのシリーズからは外れましたが、この年のルマン24時間レースもワンツーフィニッシュでした。まだ ユノディエール がシケインで分断されず、テルトルルージュからミュルサンヌまで6kmの直線だった時代です。 ついでですが、この年からしばらくの間、NHKはBS1で 鈴鹿8耐 を生中継していました。そういえば、この年の中継には本田美奈子さんがスポットでゲスト出演したんですよねえ……。 というわけで、写真は本文とはあまり関係なく、朝霞駅前にある本田美奈子の記念碑:

桜の枝に雪が満開 (1988年)

1988年4月7日の夜から降りはじめた雪はやむことなく降り続き、8日朝には積雪9cmに達しました。これは4月の東京としては1908年の20cmに次ぐ史上2番目の積雪の記録です。 この雪の影響で、関越、東北、常磐の各自動車道が一部で通行止めになったほか、JR各線や私鉄で運休や遅延が発生しました。また、羽田空港で2cmほど雪が積もったため離着陸が乱れ、国内線11便が欠航しました。 もちろん東京で雪が積もれば相次ぐスッテンコロリン、36人がけがをしました。 東京では2日にすでにソメイヨシノが開花しており、5~6分咲きのサクラの枝や花の上に雪が積もりました。なかなかみごとな光景でした。残念ながら枝折れを起こした木もあったようです。 この年のプロ野球の開幕はセ・パとも4月8日でした。西武球場での西武-南海戦は積雪のため中止になりましたが、巨人-ヤクルト戦ではこの年から登場した屋根つき球場がさっそく威力を発揮し、予定どおり行われました。 ちなみに、菊の季節にサクラが咲いたのは、前年秋のことでした。

哀歌流れる湖 (琵琶湖哀歌)

滋賀県高島町に「 四高桜 」と名づけられた桜があります。私は見たことがありません。この桜はもともと1941年に琵琶湖の萩ノ浜沖で遭難した(旧制)四高のボート部員を悼んで植えられたものだそうです。 この事故が起こったのは1941年4月6日のことでした。 当時、琵琶湖から流れる瀬田川はボートのメッカでした。全国大会も行われていました(今は知りません)。第四高等学校(今の金沢大学)のボート部員たちも、春休みには瀬田川を合宿の地に選んでいました。そして北岸まで往復の琵琶湖縦漕を行って合宿の総仕上げとしていました。 この年も3月23日から合宿に入っていました。3月23日から4月3日までは通常の練習に励み、4日が縦漕第1日目で石山から湖北の今津まで行き(♪瀬田の唐橋 漕ぎぬけて 夕陽の湖に 出で行きし……)、5日を丸一日休養にあて、6日に今津を出発して石山に帰ってくる予定でした。今津を出発したのが午前7時45分、そして約2時間後の9時50分ごろ、萩ノ浜沖で遭難したようです。 この事故の気象的な原因は、「 比良八荒 」とよばれる地形的な強風によるものとされています。 平安時代のころから、旧暦の二月二十四日に琵琶湖西岸の比良山中で比叡山延暦寺の僧が法華経八巻を修する「比良八講」とよばれる修行が行われていました(現在は3月26日に形を変えて行われているそうです)。このころ強い北西風が吹くことがあり、「比良八荒」とよばれました。一方で、「比良八荒の荒れじまい」ということわざもあり、このころが北西風(冬の風)の吹き終わりだともいわれています。 この比良八荒が吹くとき、比良山脈と野坂山地の間から琵琶湖に向かって強烈なジェット流となって吹き下りることがあります。四高のボートの11人はこのジェット流に遭遇したか、このジェット流が吹きつけて三角波が立つ湖面に翻弄されたかして、波間に飲み込まれたのでしょう。 それから間もなく、この事故を悼んで「 琵琶湖哀歌 」がつくられました。東海林太郎と小笠原美都子の歌でレコードにもなりました。すぐあとで紹介する推理小説にも書かれていますが、「琵琶湖周航の歌」と「真白き富士の根」を足して2で割ったような古典的なメロディーです。「青春歌年鑑」にも収録されていますので、興味のある方はぜひお聞きください。 ところで、内田康夫センセの作品に『 琵琶湖周航...

隅田川水上バスから消えた花嫁!?

4月5日、隅田川水上バスの船内から、結婚式場へ向かっていた花嫁が行方不明になりました。 これは、ルポライターの浅見光彦が活躍する内田康夫センセのミステリー小説『隅田川殺人事件』の発端となる衝撃的なシーンです。 光彦の母である雪江は、知人の結婚披露宴に招かれていました。ところが、主役であるはずの花嫁・隆子が、浅草から式場へ向かう隅田川の水上バスに乗船したまま、こつ然と姿を消してしまうのです。 光彦がこの不可解な謎の究明に乗り出しますが、別の女性の水死体が発見されたり、やがて行方不明だった花嫁も無残な姿で見つかったりと、事件はまったく予想もつかない展開を見せます。 水上バスという逃げ場のない「動く密室」から、花嫁はどうやって消えたのか!? トリックの面白さはもちろんのこと、事件の背景に絡む人間ドラマや、当時の東京の下町情緒がたっぷりと描かれた名作です。 さて、そんなミステリーの重要な舞台となっている「隅田川水上バス」ですが、現実の東京観光でもけっこう人気のアトラクションとして定着しています。 おもに東京都観光汽船(TOKYO CRUISE)が運航しており、浅草から浜離宮、日の出桟橋、さらにはお台場海浜公園などを結ぶさまざまなルートがあります。 水上バスの最大の魅力は、なんといっても川面から見上げる東京のダイナミックな景色です。 浅草を出発してすぐ目に飛び込んでくる東京スカイツリーの迫力は圧巻ですし、吾妻橋、清洲橋、勝鬨橋など、色も形も歴史もまったく異なる個性豊かな橋を次々と下からくぐり抜けていく体験は、陸上からの観光では絶対に味わえません。 とくに春の桜の季節には、隅田公園をはじめとする両岸に咲き誇る桜並木を船上からゆったりと眺めることができ、非常に贅沢な時間を過ごせます。 また、漫画家の松本零士氏がデザインを手がけた「ヒミコ」や「ホタルナ」、「エメラルダス」といった、まるで宇宙船のような近未来的なフォルムの船も運航しています。これに乗るだけでもけっこうテンションが上がります(笑) 恋人同士や家族連れで賑やかに楽しむのはもちろん、ひとりでふらっとデッキに出て、川風に吹かれながら移りゆく景色を眺めるのもオツなものです。浅草で下町観光や食べ歩きを満喫した後、渋滞知らずの水上バスでのんびりとお台場まで移動するルートは、まさに東京観光の王道プランといえます...

今朝の国立・大学通り

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国立市にある大学通りです。 今朝、次の地点にある歩道橋から撮りました。 赤い三角屋根の駅舎が写っています……が、何かおかしくないですか? はい。20年前にこのブログを書いていれば、確かにタイトルのとおりでした。 というわけで、20年前の今朝の国立・大学通りでした。

春三番の大嵐 (1972年)

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1972年3月31日から4月1日にかけて、日本近海で 春三番 の大嵐が吹き荒れました。海は大シケになり、3000トン級の船舶を含む海難50件が発生し、合わせて死者・不明100人以上という戦後3番目の規模の海難事故となりました。 「春三番」の語は1972年4月1日付朝日新聞朝刊の見出しに登場しました。 死者10、不明65人に 春三番の海難事故48件 そればかりか、気象庁の公式記録である「気象要覧」でも次のように使われています。 春三番があるなら春二番、春一番も当然あったわけで、春二番は3月24日が該当しそうです。また、この年の関東地方における春一番は3月20日に観測されました。これは観測史上もっとも遅い春一番でしたが、この春一番をもたらした低気圧によって富士山では死亡・不明24人という史上最大(当時 1 )の パンパカ 遭難が発生しました。さらに、九州西方の男女群島付近でも死亡・不明13人という漁船の座礁事故が起きています。 なお、俗に「花おこしの春二番、花散らしの春三番」などといわれることもありますが、調べてみるとほとんど一致しません。 その後これを超える パンパカ 遭難があったかどうかは興味がないので知りません。 ↩︎

八百屋お七火あぶりの刑 (1683年)

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天和三年三月二十九日(グレゴリオ暦で1683年4月25日)、八百屋お七が鈴ヶ森刑場にて火あぶりの刑に処せられました。 お七という少女が火付けの罪でこの日火あぶりの刑に処せられたのは事実のようですが、お七が放火した火事については天和二年一月説、天和二年十二月のいわゆる“お七火事”説、天和三年三月説などがあります。時系列などを考慮すると、おもに天和三年三月だとするのがもっとも違和感がありません。 この火事は、天和三年三月二日(1683年3月29日)の夜、本郷・森川宿にある八百屋の娘、お七がひとりで近くの商家に放火したところを通行人に発見され、すぐに消し止められたというもので、今流にいえばボヤです。しかし、当時はボヤでも放火は大罪であり、市中引き廻しの上、火あぶりになるのが通例でした。 放火の動機は、天和二年十二月二十八日の大火事(いわゆる「天和の大火」)でお七の家も被災して正仙院などのお寺に仮住まいした際、そこの“イケメン”と恋仲になったのですが、新居が完成して会えなくなり、再び火事になれば会えるという妄想が、彼女を放火へと駆り立てたとされています。 お七の年齢、被災した火災、仮住まいしたお寺の名前(正仙院、円乗寺、吉祥寺など)、“イケメン”の名前(生田庄之介、吉三郎、山田佐兵衛など)には多くの異説があります。 とくに有名なのが、お七の年齢と奉行にまつわる悲話です。当時、15歳以下ならば死刑を免れるという規定がありました。お七を哀れんだ奉行が「お前は15歳だろう?」と助け船を出したにもかかわらず、お七は生真面目に「16歳です!」と答え、証拠のお守りまで提示してしまったため、まったく減刑の余地がなくなり刑が執行されたというエピソードは、けっこう知られています。 これが円乗寺に現存するお七のお墓です。 今では知る人ぞ知る恋愛成就のパワースポットだそうです。 ちなみに、内田康夫『追分殺人事件』では、1987年3月7日にこのお墓の前で男の変死体が発見されたことになっています。これについての詳細は次を参照してください: 八百屋お七のお墓の前に変死体 (1987年)

やせたソクラテスより太った豚 (1964年)

1964年3月28日、東大の大河内一男学長が卒業式で「太った豚になるより、やせたソクラテスになれ」と訓辞した――とされています。 広くいわれていますが、実際にはこのような言葉は本番では一言も語らなかったそうです。一種の都市伝説でしょう。 とはいえ、まったくの捏造というわけではなく、事前にマスコミに配られた予定稿には確かに書かれていたそうです。しかし本番で学長がうっかり(あるいは意図的に?)その部分を読み飛ばしてしまったのです。ところが当時の新聞記者は誰ひとり実際の式辞の内容を確認せず、もらった原稿をそのまま記事にしてしまったため、「東大学長の名言」として世間に定着してしまったわけです。マスコミの裏取りの甘さは今も昔もけっこう変わらないものですね(笑) 夕刊への入稿の締め切りなどがあったのかもしれませんが。 さらにこの話にはオチがありまして、そもそもこの言葉は大河内学長のオリジナルではなく、原稿ではイギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの言葉として引用されていました。おもにミルの著書『功利主義』からの引用とされていますが、その原文を見てみると、 満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。 とあり、「太った豚」や「やせたソクラテス」なんて言葉は出てきません。誰が翻訳したのかは知りませんが、けっこう大胆な意訳、というか改変が加わっているわけです。 ちなみに、ホンモノのソクラテスはデブだったという話があり、ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』には「チビで、デブで、目つきが陰険で、鼻は上を向いていた」というふうに書かれています。 この一連のすれ違いは、2015年の東大教養学部の卒業式で当時の石井学部長が「権威ある言葉でも無批判に信じ込まず、一次情報を自分の目で確認せよ」と、批判的思考の重要性を説くネタとして取り上げたことで、とくに有名になりました。 それにしても豚に対して失礼な言い草ですね。太った豚は食料として役に立ちますが、やせた(本当はデブの)ソクラテスはへりくつをこねるだけで害にこそなれ、何の役にも立ちません(笑) 情報リテラシーだ批判的思考だと説教されるのもいいですが、まずは豚の尊厳について考えてみるべきではないでしょうか。

杉野はいずこ 杉野はいずや (1904年)

AD1904/03/26 第2回旅順口閉塞作戦(~27日) AD1904/03/27 第2回旅順口閉塞作戦。広瀬武夫少佐が壮烈な戦死(死後中佐に昇進) その名も 「広瀬中佐」 という唱歌がありまして、なぜか小学生のころから知っていました(笑) もっとも、そのころはどうも 「勇敢なる水兵」 と状況を混同していたきらいはあります。とくに軍事ヲタでない私は当然のことながら閉塞作戦なんて知らなかったですから。 とはいえ今の時代、閉塞作戦を知らない人はけっこういるようで、 日本映画専門チャンネル のホームページに 次のような解説記事 (リンク切れ)がありました。 “杉野はいずこ”広瀬少佐といっても誰もわからないかも知れないので、ちょっと説明しよう。自分の乗っていた戦艦《ママ》が敵の攻撃を受けて大破、沈没寸前というとき、広瀬少佐は乗組員を全員救命ボートで脱出させたあと、火柱が上がりどんどん浸水する艦内でたったひとり姿の見えない部下、杉野を探すのだ。しかし、とうとう見つけられずに自分も杉野も艦と運命をともにしてしまう《ママ》、という話なのだ。当時は、部下を思い遣る上官の美談として語られて有名になった。 何の映画の解説かは忘れました。 話がそれましたが、その唱歌「広瀬中佐」に やみをつらぬく 中佐の叫び 杉野はいずこ 杉野はいずや というフレーズがあります。杉野さんっていったいどうなったんだろう? となんとなく疑問に思っていました。たぶん亡くなったんだろうという想像はできましたが、とくに軍事ヲタでない私は広瀬中佐とともに軍神レベルに祭り上げられているなんて知りませんでしたし。 ただ、実際には死亡は確認されていなかったようです。林えいだい『日露戦争秘話 杉野はいずこ―英雄の生存説を追う』によると、東郷平八郎司令長官の報告書には杉野孫七一等兵曹は「戦死せるものゝ如く」とあるだけで、今流の言い方では行方不明ということだそうです。 そういうこともあり、杉野さんについては日露戦争直後から生存説が流布していたようです。 しかし、かりに生存していたとしても、広瀬「中佐」を軍神扱いする以上、杉野「一等兵曹」も戦死していないとサマにならないわけです。軍神扱いをされていた本人に生きていられては当時の軍部としては困るわけで、帰国はかなわず、杉野孫七という個人がこの世か...

15年前の今日、暗闇を照らしたメイダンの奇跡 (2011年)

今日、2026年3月26日で、あの夜からちょうど15年が経ちました。 「 メイダンの奇跡 」のお話です。 2011年3月11日。未曾有の被害をもたらした 東北地方太平洋沖地震 から、わずか2週間ほどしかたっていない時期でした。当時の日本は深い悲しみと混乱の中にあり、スポーツやエンターテインメントを楽しむ空気はまったくと言っていいほどありませんでした。競馬界も例外ではなく、多くのレースが中止や延期を余儀なくされ、日本全体が下を向いていた日々です。 そんな重苦しい雰囲気の中、アラブ首長国連邦のドバイ、メイダン競馬場で行われたのがドバイワールドカップ(G1)です。 世界最高峰の競走として知られるこの大舞台。1996年の創設以来、多くの日本の名馬たちが挑戦しては厚い壁に跳ね返されてきました。優勝争いはおもに海外の強豪馬たちによって繰り広げられ、それまで日本の馬が勝ったことは、ただの一度もなかったのです。 この年、出走した日本馬はヴィクトワールピサ(M.デムーロ騎手)、トランセンド(藤田伸二騎手)、ブエナビスタ(R.ムーア騎手)の3頭。 スタートで、ヴィクトワールピサが痛恨の出遅れを喫します。1コーナーでは最後方の位置に。 レースはトランセンドが逃げる形でスローペースになり、ヴィクトワールピサのデムーロ騎手はそれを利用して向正面でスルスルと進出、3コーナー手前で先頭のトランセンドの外まで上がってきます。 直線に入っても2頭の脚色は衰えません。後続の猛追をしのぎ切り、ヴィクトワールピサが1着、トランセンドが2着でゴール板を駆け抜けました。日本競馬史上初となるドバイワールドカップ制覇——しかもワンツーフィニッシュという、これ以上ない劇的な結末でした。 レース後、勝ったミルコ・デムーロ騎手は馬上から天を仰ぎ、大粒の涙を流しました。彼の腕には喪章である黒いテープが巻かれていました。「日本のみんなを愛している。この勝利が少しでも励みになってほしい」 当時は私も、眠い目をこすりながらテレビの画面越しに観戦していました。2頭がゴールに飛び込んだ瞬間は、今でもけっこう鮮明に思い出すことができます。

ピーガガガの記憶とアスキーネットPCS、そして幻のNTTホスト

1992年3月25日、アスキーネットPCSがサービスを終了しました。 「パソコン通信」とは何か? といえば、1980年代半ばからインターネット普及前夜までを支えたネットワークのことです。当時の通信環境は今の常識ではまったく考えられないものでした。主流だったモデムの通信速度は1200bpsや2400bps。画面に文字が表示されるのをゆっくり目で追えるほどのスピードで、小さな画像ファイルを1枚ダウンロードする間にカップ麺ができてしまうレベルです(笑) それに加えて、当時の通信費もけっこうなハードルでした。今のような定額制ではなく、つないだ時間だけ電話料金がかかる完全従量制。3分10円の市内通話ならまだしも、市外のホストコンピューターにつなごうものなら通話料は跳ね上がります。月末に数万円の請求書が届き、親からカミナリを落とされる中高生が続出したものです。 そんな過酷な(?)通信環境のなか、とくに初期のころのユーザーから絶大な人気を集めていたのが、各地域のNTT営業所が開設していたホスト(BBS)でした。なんといってもホストの利用料が無料で、近場の営業所なら市内通話料金だけで遊べたのです。おもに学生やライトユーザーたちのオアシスとして、連日大盛況となっていました。 しかし、そこで「待った!」がかかります。 巨大な通信インフラを持つNTTが無料でサービスを提供し続ければ、民間企業による有料サービスの成長を阻害してしまうのではないか: こうした「民業圧迫」の批判を強く浴びることになり、大人気だった各NTTの無料ホストは、1989年6月ごろに一斉に閉鎖されるという劇的な最期を遂げました。 そんな群雄割拠のパソコン通信黎明期において、1985年にいち早く実験サービスを開始し、国内のパイオニア的存在だったのがアスキーネットです。NECの「PC-VAN」や「NIFTY-Serve」といった巨大ネットワークが台頭してくるなかでも、アスキーネットはとくにホビー色やマニアックな空気が漂う独特の立ち位置を築いていました。PCS(Personal Communication Server)はそんなアスキーネットが提供していたサービスのひとつで、おもにコアなユーザーたちに深く愛されましたが、時代の波のなかで1992年のこの日に運用を終えました。 その後の流れは存知のとおりです。...

壇ノ浦の合戦 (1185年)

元暦二(寿永四)年二月十八日(ユリウス暦で1185年3月21日)、屋島の奇襲に成功した源義経は兄・範頼と合流、平家を西に追撃します。この間、平家についていた熊野水軍、河野水軍が義経軍に加わり、水軍の勢力は一気に逆転しました。ちなみに、熊野水軍を率いる熊野湛増は武蔵坊弁慶の父親だという伝説もあります。 しかし、平家側にはまだ九州を地盤とする強力な水軍がついており、彦島を拠点に起死回生を図ります。 三月二十四日卯の刻(ユリウス暦で1185年4月25日午前6時ごろ)、田野浦に待ち受ける平家軍と義経軍との間で合戦の合図である矢合わせが始まりました。この前後、義経軍では、源義経と梶原景時との間で先陣をめぐってあわや同士討ちという場面もありましたが(軍紀がしっかりしている平家に対し、軍紀があってなきがごとき源氏)、昼ごろまでには平家軍主力と義経軍主力が約3kmを挟んで対峙、決戦が始まりました。 通説では、初めは平家軍が潮の流れに乗って義経軍を攻めたてたが、午後1時半ごろ潮流が変わると形勢逆転、源氏が潮の流れを利用して一気に平家を滅ぼしたとされています。 しかし、柳哲雄『潮の満干と暮らしの歴史』によると、このときの潮流はもっとも速い壇ノ浦沖でも1ノットに満たず、主戦場になった満珠、千珠島付近では0.2ノットに満たなかったそうです。ここで、1ノット=約0.5m/s=約2km/hです。 少し話が逸れますが、「1時間に10ノットの速さで……」というような表現をたまに見かけることがあります。例えば「月曜ドラマスペシャル」で1999年2月22日に放送された「水上署の源さん 東京運河-信州斑尾高原連続殺人事件」の中に次のようなセリフがありました。 事件当夜の潮の流れは毎時1.5ノット《ママ》,1時間に2km《ママ》…… ノット(knot)自体が速さの単位なので、“1時間に10ノット”の速さというのはまったくもって意味不明です。 ついでに上記のセリフについていえば、1.5ノットは1時間に2kmではなく約2.8kmです。 話を戻すと、0.2~1ノット弱程度の潮の流れでは、その影響が多少はあったにしても、決定的な要因とは考えられません。『平家物語』にもあるように、平家から源氏への武将の寝返りと、義経軍のとった非戦闘員である水夫を狙い撃ちにするという“卑怯な”戦術によるところが...

昭和を駆け抜けた名車、秩父路にて完結 (2014年)

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2014年3月23日、秩父鉄道1000系が引退しました。 秩父鉄道は、埼玉県北部の羽生駅から熊谷駅を経て、大自然が広がる三峰口駅までを結ぶローカル私鉄です。SLパレオエクスプレスが走っていたり、武甲山から採掘される石灰石を運ぶ長大な貨物列車が頻繁に行き交っていたりと、首都圏からけっこう近い距離にありながら、非常に個性的で魅力あふれる路線です。 さて、今回惜しまれつつ引退した秩父鉄道1000系ですが、これはまったくのオリジナル車両というわけではありません。その正体は、かつて日本国有鉄道(国鉄)が誇った通勤型電車のパイオニア「101系」です。 101系は1957年(昭和32年)に登場した国鉄初の「新性能電車」です。カルダン駆動方式を採用し、それまでの重くてうるさい吊り掛け式電車とは一線を画す、画期的な車両だったそうです。 101系の歴史を振り返ると、日本の鉄道史そのものと言っても過言ではありません。それまでの国鉄電車といえば、暗い茶色(ぶどう色)が当たり前でしたが、101系は中央線に目にも鮮やかなオレンジ色(オレンジバーミリオン)をまとってデビューし、当時の人々の度肝を抜いたのではないでしょうか? そんな高度経済成長期の東京を支えた101系も、後継車両の登場により徐々に第一線から退いていきます。しかし、1986年(昭和61年)ごろからおもに3両編成に組み直され、秩父鉄道へと譲渡されました。これが「秩父鉄道1000系」の始まりです。 秩父鉄道では独自のカラーリングで地元住民の足として活躍していましたが、晩年になるとファンサービスとして旧国鉄時代のカラー(オレンジ、スカイブルー、カナリアイエローなど)に復刻される編成が登場しました。 床下から響き渡るモーターの唸り音や、天井で首を振る扇風機といったレトロな車内設備は、昭和の通勤風景そのものでした。 オリジナルカラーと、最後まで残ったオレンジカラーです。 各所で迷惑行為を繰り返す「撮り鉄」ではないので(そもそも“鉄”ですらない)、こんな写真しかありません。 ここで忘れてはならないのが、秩父鉄道が走るエリアの過酷さです。沿線には「あついぞ!熊谷!」で有名な熊谷市があり、日本で最も暑いところを走る鉄道といっても過言ではありません。それにもかかわらず、この1000系編成は、秩父鉄道のほかの多くの3両編成と同様...

ホトケ谷に女性の変死体 (1990年)

おそらく1990年の3月22日、京都府相楽郡加茂町の通称「ホトケ谷」の谷底から、死後10日前後の女性の変死体が発見されました。 というのが、内田康夫センセの 『平城山を越えた女』 で描かれる最初の事件です。 ちなみに、死体が発見されたホトケ谷のある相楽郡加茂町は、今では木津川市加茂町になっているようです。 私は1992年に発行された講談社ノベルズ版で読んだことは覚えているのですが、内容はほとんど忘れているため、とくに語ることはありません。 この作品は1回だけ2時間サスペンスドラマ化されました。2013年5月10日に放送された「金曜プレステージ浅見光彦シリーズ第47弾「平城山を越えた女~見た者は呪われる!?盗まれた死を呼ぶ秘仏 古都に消えた女の謎…なりすまされた男の罠 哀しき親子の契りと業 血塗られた殺意とは」」です。 あらすじを、まだページが残っている 浅見光彦シリーズ 第47回 2013年5月10日(金)放送 平城山を越えた女 - フジテレビ から引用します。 ルポライターの浅見光彦(中村俊介)は、「旅と歴史」の取材で京都を訪れていた。浅見が大覚寺で写経をしていると、50歳くらいの年配の男性が現れて、文机に向かう女性の顔を1人1人確かめるように覗いていく。誰かを探しているのか、目当ての人でないと分かると、男性は残念そうな表情を見せて去って行った。その場にいた女性・阿部美果(遊井亮子)が、お坊さんに男性の来訪目的を聞いたところ、大覚寺によく写経に来る娘の行方が分からなくなって捜しまわっているという。 写経を終えた浅見が美果と話していると、さきほどの男性が歩いているのを見かけたので「お嬢さんを探しているそうですね」と声をかけた。男性は、数日間消息不明になっているので何か気付いたことがあったら連絡ください、と浅見に名刺を渡してその場を立ち去った。男性の名前は野平隆夫で、中興商事に勤める会社員だった。 「旅と歴史」を知っていた美果とすっかり意気投合した浅見。仏像巡りが趣味だという美果に、盗難にあって行方不明の“香薬師”という仏像があった新薬師寺に連れて行ってもらう。“香薬師”に興味を持ち始めた浅見。その後、美果とホトケ谷を散策していると偶然、女性が転落死した現場に遭遇。現場近くにいた刑事が無線で署に報告している内容を立ち聞きする浅見。すると被害者の女性は...

カイカヨソウとカイカセンゲン

2013年3月21日に浦和競馬場で行われた第59回桜花賞 1 、 netkeiba.com (リンク生きてます(笑))より: カイカヨソウ敗れて波乱、2番人気イチリュウが鮮やか逃げ切りV/桜花賞・浦和 > [地方競馬] 2013年03月21日(木)17時06分 21日、浦和競馬場で第59回桜花賞(3歳・牝・ダ1600m・1着賞金2500万円)が行われ、スタートを五分に出て道中後続を1馬身ほど離しての単騎逃げに持ち込んだ、的場文男騎手騎乗の2番人気イチリュウ(牝3、川崎・内田勝義厩舎)が、楽な手応えのまま単独先頭で4コーナーを通過。最後の直線に入ってもその脚衰えず、最後は後続を突き離して逃げ切り、2番手追走から粘り込んだ5番人気アステールネオ(牝3、船橋・佐藤賢二厩舎)に、2.1/2馬身差をつけ優勝した。勝ちタイムは1分41秒5(良)。 なお、このレースで単勝1.1倍と断然1番人気に推された、注目のカイカヨソウ(牝3、船橋・川島正行厩舎)は、道中中団外目を追走するも勝負処での反応悪く、さらに5馬身差の3着に追い込むのが精一杯。 3番人気ケンブリッジナイス(牝3、船橋・新井清重厩舎)は、さらに2馬身差遅れての4着《ママ》敗れている。 勝ったイチリュウは、父キングヘイロー、母キハク、その父アサティスという血統。前走・トライアルのユングフラウ賞(浦和・1400m)では、初コースでスタート悪く後方追走から追い込んで2着。本番のここは、スタートをポンと飛び出すとあとはマイペースのラップを刻み、最後の直線は鞍上・的場文男騎手の豪快なアクションに応えて、逆に後続を突き離す快勝で重賞初制覇。戦前は「1強」とされた見立てを軽々と覆してみせ、嬉しい(浦和)桜花賞馬のタイトルを手にした。 この年、 自称を含む 民間気象会社の桜の開花予想は外れまくっていました。 サクラの開花予想、修正しても修正してもそれを上回る早さで開花してる(笑) 見事な外れっぷり — Yagi Kei ( @yagikei ) March 21, 2013 そんなわけでこんな予想をする人もいました。 桜花賞、順当ならカイカヨソウなんだろうけど、今年の開花予想は面白いくらい外れまくりだから、人気薄の逃げ馬デイジーギャルの単勝でいってみる。いちおうローレル賞と桃花賞の勝ち馬なので...

地下鉄サリン事件15分前の中央線 (1995年)

実際にはすでに発生していたかもしれませんが、 地下鉄サリン事件 の速報が伝えられる直前、私が乗っていた東京行き中央線快速電車 (今はなき201系オレンジ電車) の車内で気分が悪くなった乗客が現れ、救護のためダイヤが遅れました。 日曜日と祝日に挟まれた月曜日だったこともあり、車内にはどこか冷ややかな雰囲気が漂っていました。 ちなみに、グモ (当時はまだなかったことば) が多発し 魔の中央線 とか 呪われた中野駅 とかよばれるようになるのはこの年の秋で、このときはまだ中央線もそれなりに平和でした。 地下鉄サリン事件のラジオでの第1報は 地下鉄丸ノ内線と日比谷線の車内で気分が悪くなった乗客が出たため、運転を見合わせている というようなものでした。 中央線の車内での“事件”の直後であったため、「今日は気分が悪くなる人間が多いな。日曜日と祝日に挟まれた月曜日だし、誰も仕事になんて行きたくないんだろう……」程度にしか思っていませんでした。 地下鉄での“事件”が未曾有の大事件であるらしいことがわかるのは、もう少しあとのことです。 なお、中央線ではちょうど1か月後、 国分寺ザリン事件 が起こります。いずれこのブログでも触れるかもしれません。