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巌流島の決闘? (1612年)

慶長十七年四月十三日(グレゴリオ暦で1612年5月13日)、佐々木小次郎と宮本武蔵が舟島(現在の巌流島)で決闘した――とされています。 小次郎打ち負け蘇生す。然るに武蔵の弟子等隠れ居て、後より寄り集まり小次郎を打ち殺す。 ~『沼田家記』より(要約) この文書によると、決闘で武蔵は小次郎(ここでは名前は明記されていませんが)を打ち倒したものの、致命傷には至っていませんでした。しかし、武蔵が島を去った後、隠れていた武蔵の弟子たちがゾロゾロと現れ、倒れていた小次郎をよってたかってなぶり殺しにしたというのです! これが事実だとすれば、決闘というより 計画的な暗殺事件 です。 とくに、武蔵は兵法者として「勝つこと」に異常な執着を持っていた人物ですから、手段を選ばなかったとしても不思議ではありません。彼が書いた『五輪書』には、精神論ではなく徹底した実戦的合理主義が貫かれています。相手を出し抜き、多勢で無勢を確実に仕留める。それが戦国の世のサバイバル術だったのでしょう。 さて、真実はどうだったのでしょうか? 当時の舟島には監視カメラもドライブレコーダーもありません。そこで、そうです!! 名探偵・浅見光彦 の登場です!! ……と言いたいところですが、現在から江戸時代初期に行くにはタイムマシンが必要です。ここはやはり ドラえもん にお願いしましょう(もちろん現在の声優さんではなく、大山のぶ代さん版のドラえもんで)。 「巌流島殺人事件」の謎を解くためには、警察の鑑識課にも同行してもらいたいところです。『科捜研の女』の榊マリコがいれば、木刀の打撃痕から当時の武蔵の筋力や、倒れていた小次郎にとどめを刺した凶器の特定まで、最新科学でバッチリ解明してくれるはずです。「科学は嘘をつかないわ」と言いながら、武蔵の弟子たちを論破するマリコ……けっこう見ごたえがありそうです。 そういえば、時代劇ファンとしては『水戸黄門』の御一行に偶然通りかかってほしい気もします。 「助さん、格さん、こらしめてやりなさい!」の声とともに、印籠を出して武蔵の弟子たちをひれ伏させる。でも、これだと1612年という時代設定的に、水戸光圀公はまだ生まれてもいないので、設定に無理がありますね。やはりここは、将軍さまみずから成敗する『暴れん坊将軍』……と思いきや、これも吉宗の時代なのでずいぶん先の話になってしま...

八百屋お七火あぶりの刑 (1683年)

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天和三年三月二十九日(グレゴリオ暦で1683年4月25日)、八百屋お七が鈴ヶ森刑場にて火あぶりの刑に処せられました。 お七という少女が火付けの罪でこの日火あぶりの刑に処せられたのは事実のようですが、お七が放火した火事については天和二年一月説、天和二年十二月のいわゆる“お七火事”説、天和三年三月説などがあります。時系列などを考慮すると、おもに天和三年三月だとするのがもっとも違和感がありません。 この火事は、天和三年三月二日(1683年3月29日)の夜、本郷・森川宿にある八百屋の娘、お七がひとりで近くの商家に放火したところを通行人に発見され、すぐに消し止められたというもので、今流にいえばボヤです。しかし、当時はボヤでも放火は大罪であり、市中引き廻しの上、火あぶりになるのが通例でした。 放火の動機は、天和二年十二月二十八日の大火事(いわゆる「天和の大火」)でお七の家も被災して正仙院などのお寺に仮住まいした際、そこの“イケメン”と恋仲になったのですが、新居が完成して会えなくなり、再び火事になれば会えるという妄想が、彼女を放火へと駆り立てたとされています。 お七の年齢、被災した火災、仮住まいしたお寺の名前(正仙院、円乗寺、吉祥寺など)、“イケメン”の名前(生田庄之介、吉三郎、山田佐兵衛など)には多くの異説があります。 とくに有名なのが、お七の年齢と奉行にまつわる悲話です。当時、15歳以下ならば死刑を免れるという規定がありました。お七を哀れんだ奉行が「お前は15歳だろう?」と助け船を出したにもかかわらず、お七は生真面目に「16歳です!」と答え、証拠のお守りまで提示してしまったため、まったく減刑の余地がなくなり刑が執行されたというエピソードは、けっこう知られています。 これが円乗寺に現存するお七のお墓です。 今では知る人ぞ知る恋愛成就のパワースポットだそうです。 ちなみに、内田康夫『追分殺人事件』では、1987年3月7日にこのお墓の前で男の変死体が発見されたことになっています。これについての詳細は次を参照してください: 八百屋お七のお墓の前に変死体 (1987年)

壇ノ浦の合戦 (1185年)

元暦二(寿永四)年二月十八日(ユリウス暦で1185年3月21日)、屋島の奇襲に成功した源義経は兄・範頼と合流、平家を西に追撃します。この間、平家についていた熊野水軍、河野水軍が義経軍に加わり、水軍の勢力は一気に逆転しました。ちなみに、熊野水軍を率いる熊野湛増は武蔵坊弁慶の父親だという伝説もあります。 しかし、平家側にはまだ九州を地盤とする強力な水軍がついており、彦島を拠点に起死回生を図ります。 三月二十四日卯の刻(ユリウス暦で1185年4月25日午前6時ごろ)、田野浦に待ち受ける平家軍と義経軍との間で合戦の合図である矢合わせが始まりました。この前後、義経軍では、源義経と梶原景時との間で先陣をめぐってあわや同士討ちという場面もありましたが(軍紀がしっかりしている平家に対し、軍紀があってなきがごとき源氏)、昼ごろまでには平家軍主力と義経軍主力が約3kmを挟んで対峙、決戦が始まりました。 通説では、初めは平家軍が潮の流れに乗って義経軍を攻めたてたが、午後1時半ごろ潮流が変わると形勢逆転、源氏が潮の流れを利用して一気に平家を滅ぼしたとされています。 しかし、柳哲雄『潮の満干と暮らしの歴史』によると、このときの潮流はもっとも速い壇ノ浦沖でも1ノットに満たず、主戦場になった満珠、千珠島付近では0.2ノットに満たなかったそうです。ここで、1ノット=約0.5m/s=約2km/hです。 少し話が逸れますが、「1時間に10ノットの速さで……」というような表現をたまに見かけることがあります。例えば「月曜ドラマスペシャル」で1999年2月22日に放送された「水上署の源さん 東京運河-信州斑尾高原連続殺人事件」の中に次のようなセリフがありました。 事件当夜の潮の流れは毎時1.5ノット《ママ》,1時間に2km《ママ》…… ノット(knot)自体が速さの単位なので、“1時間に10ノット”の速さというのはまったくもって意味不明です。 ついでに上記のセリフについていえば、1.5ノットは1時間に2kmではなく約2.8kmです。 話を戻すと、0.2~1ノット弱程度の潮の流れでは、その影響が多少はあったにしても、決定的な要因とは考えられません。『平家物語』にもあるように、平家から源氏への武将の寝返りと、義経軍のとった非戦闘員である水夫を狙い撃ちにするという“卑怯な”戦術によるところが...

江戸の桜田 雪が降る (1860年)

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万延元年三月三日の上巳の節句、早い話がひな祭り、頃は五ツ半時(午前9時ごろ)、あかりをつけましょ ぼんぼりに――ではなくて、総勢60余人からなる大老 井伊掃部頭直弼 の行列が桜田門外にさしかかったとき、お花をあげましょ 桃の花――でもなくて、18人の水戸浪士らが行列に襲いかかり、五人ばやしの 笛太鼓――いいかげんシツコいですが、早い話が大老を暗殺しました。世にいう 桜田門外の変 です。 赤穂浪士 の討ち入りや 二・二六事件 の襲撃のときは実際には雪は降っていなかったのですが、このときは実際に雪が降っていました。と、見てきたようなことをいう(笑) 60余人ものお供の者がついていながら、大老をむざむざ討ち取られてしまったのは、すべてが戦闘員というわけではなかったこともあるでしょう。 しかし、もっとも大きな理由は、この日は朝から雪が降っていたため、雪水がしみるのを防ぐために刀に「柄袋(つかぶくろ)」をつけていたことだといわれています。これでは刀をなかなか抜くことができません。 さらには、テロ集団がまさか白昼堂々と襲ってくることはないだろうという、油断というより固定観念のようなものがあったのかもしれません。 万延元年三月三日は今の暦では1860年3月24日にあたります。晩雪ではありますが、現在の平年値でも東京の終雪は3月9日、3月の降雪日数は1.4日ですから、とくに珍しい現象というほどではありません。ちなみに3月の最深積雪は1969年に記録した30cmです。 なお、藤原ハカセによると、この日赤い雪が降ったといって江戸の人は騒いだそうです。(1925年1月31日付東京朝日) 井伊掃部頭が桜田門外で暗殺された時にも赤い雪が降つたと云つて江戸人が騒いださうだ 桜田門外の変のあと、文久二年正月十五日に老中・安藤信正がやはり水戸浪士らに襲われる 坂下門外の変 が起こりました。 このときは老中側のテロ対策が抜かりなかった……というよりも、襲撃側の計画がかなりズサンだったらしく、老中は軽傷を負っただけで、襲撃側が全滅しました。 この日は現在の暦では1862年2月1日にあたり、「時期から見て雪が降っていたかも……」と思ったのですが、どうやら雪が降っていたという記録はないようです。 これは今の桜田門。“内堀ランナー”の通り道になっています。 ちなみに、筆者は桜田門と...