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浦安ねずみ園開園 (1983年)

浦安ねずみ園 、またの名を 浦安ディズニーランド 、別名 東京ディズニーランド が開園したのは1983年4月15日でした。43年前の今日です。 開園当日の(地上)天気図を見ると、関東地方は日本海西部にある低気圧からのびる温暖前線の北側にあたっており、朝から雨でした。 あいにくの雨模様にもかかわらず、開園を待ちわびた人たちが早朝から列を作って並ぶ中で、午前八時過ぎからワールドバザール内でオープンセレモニーが行われた。・・・・・・午前九時に待ち受けた《ママ》三千人の入場者が一斉に目指すアトラクションへ繰り出した。(16日付千葉日報朝刊) 入場数は11時で1万2000人あまりと、雨で出足は鈍かったようですが、1日では3万人に達し、まずは順調な滑り出しだったということです。 話は変わって、あれだけの入場者がありながら40年以上大きな事故がなく続いているのはかなりすごいことだと思います。さらに3.11のときの神対応はもはや伝説となっています。 一方で、人気スポットの宿命か、都市伝説はいろいろあります。スペース・マウンテンとかいう絶叫マシンのコース脇には位牌があるとか、子どもの何人かは誘拐されているとか……。Wikipediaにこんな項目があります→ 東京ディズニーランドの都市伝説の一覧 - Wikipedia 根拠薄弱で荒唐無稽なものは別として、次の都市伝説はリアルです。最もコワいかもしれません。そして、かなりの部分で真実が含まれています。 浦安ねずみ園を訪れたカップルは別れる。 「初デートで浦安ねずみ園を訪れたカップルは別れる」というバリエーションもあります。 かなり多くのカップルがデートで訪れるでしょうから、その中の何組かが別れてもまったく不思議はありません。 それに、スタッフ経験者に聞いた話では、園内でケンカをしているカップルがけっこう目につくんだとか。アトラクションの待ち時間が長かったりするので、とくにつき合いはじめてからの期間が短いカップルだと、今まで見たことのない相手のイヤなところが現れたりするのかもしれません。

ヒアルロンサン対コラーゲン、美の頂上決戦 (2013年)

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今日、4月14日は競馬ファン、そして一部の美容マニア(?)にとって、歴史的な対決が行われた記念すべき日です。 今から13年前の2013年4月14日、福島競馬第4レースにて、ある2頭の馬が激突しました。 その名も「ヒアルロンサン」と「コラーゲン」。 馬名審査をよく通ったなと感心しますが、どちらもれっきとした競走馬です。美肌をめぐる因縁の直接対決は、ヒアルロンサンが見事勝利を収めるという結果に終わりました。 さて、この勝負に勝ったヒアルロンサンと、敗れたコラーゲン。どちらも「お肌によい」イメージがありますが、具体的に何が違うのでしょうか。 コラーゲンは、おもに皮膚や軟骨などを構成するタンパク質の一種です。建物の柱のように、細胞同士をつなぎ合わせて肌にハリや弾力を持たせる役割を担っています。 一方のヒアルロン酸は、1グラムで6リットルもの水分を抱え込むことができるという、とくに保水力に優れた成分です。コラーゲンの網の目の間を埋めるように存在し、肌の潤いを保ったり、関節の動きをなめらかにしたりするクッションのような働きをします。 ベッドに例えるなら、コラーゲンが「スプリング(弾力)」、ヒアルロン酸が「マットレスの綿(水分)」といったところでしょうか。 それにしてもこの2つの成分、テレビをつければ見ない日はないというくらい、通販番組で扱われていますよね。 「年齢とともに減少する成分を補給!」 「朝からスッキリ、階段もスムーズに!」 元気な愛用者の映像(注:個人の感想です)とともに、けっこうな頻度でどこかのチャンネルで宣伝されています。サプリメントからドリンク、化粧水まで、まさに美容と健康の二大巨頭です。 ただ、通販番組を見ていると、コラーゲンを食べればそのまま肌のコラーゲンになるかのような錯覚に陥りますが、口から摂取したタンパク質は胃や腸で一度アミノ酸に分解されます。まったく意味がないとは言いませんが、食べたものがそのままピンポイントで膝や頬に直行するわけではないんですよね……(笑) ひとりでテレビを見ながら、「そんな都合よくいくわけないだろ」とツッコミを入れつつ、ついフリーダイヤルをメモしそうになる、あるいは画面に表示されたQRコードをスマホで読み取りそうになる……。そんな経験がある方も多いのでは? 13年前の福島競馬での対決はヒアルロンサンの勝利...

おかわりの「どこかにマイル」で熊本へ (2025年7月)

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まずはお詫びポスト(旧ツイート)から。 熊本地震のとき,申し訳ないけど「益城町」を知らなくて「まつしまし」と聞こえて,どうして「松島市」? と思ったものだった。 そのときはまさか益城町に来ることになるとは思っていなかった — やぎにょん ( @yaginyone_jnr ) July 10, 2025 去年の4月、ちょうど今ごろ、「どこかにマイル」で高松に行ったのが楽しくて、JALマイルが残っていることもあり、7月におかわりでどこかにマイルに行きたくなりました 1 。 候補に選んだのは「熊本」「北九州」「高知」「大分」。それまで九州には行ったことがなかったので九州のどこかに行きたいなあ……と思いつつ、四国で唯一行ったことのなかった高知にも行ってみたいなあ……と、要するにどこが当たってもいい状態でした(笑) そして引き当てたのは「熊本」。 真っ先に浮かんだのは熊本城――ではなく、熊本大洋デパート――でもなく、私の父方の祖先が熊本の出身だということでした。 とりあえず市内のホテルを予約して簡単なスケジュールを考えます。2日目の天気によっては祖父の出身地に行ってみようかとも考えていました。とはいっても、仮に天気がよかったとしても7月の蒸し暑い時期、熊本市内からは片道1時間半から2時間かかり、しかも少なくとも30分程度は徒歩移動というかなりの強行軍が予想されました。 第1日目:予期せぬ「益城町」との遭遇 とくにトラブルもなく、阿蘇くまもと空港に到着。 ここからバスで熊本市内に移動するわけですが、そういえば、熊本のバスでは全国共通交通系ICカードが使えなくなるという情報を前年(2024年)の9月ごろ聞いていました。そのときはまさか翌年に熊本に来ることになるとは思ってもみませんでした。 そしてバスの車窓から標識の「益城町」という地名を見て、最初に紹介したポスト(旧ツイート)になるわけです。 ホテルは熊本城が見える部屋を予約しました。 明日の天気は朝のうちは雨で、のちに回復するという予報でしたが、はたして……。 第2日目:雨の熊本城と、生々しい震災の爪痕 予報どおり、朝のうちは雨が降っていました。 ホテルの部屋でしばらくボーッとしていましたが、 止みそうになかったので、小降りになったタイミングを見て、外に出かけました。ご先祖さまの地を訪...

巌流島の決闘? (1612年)

慶長十七年四月十三日(グレゴリオ暦で1612年5月13日)、佐々木小次郎と宮本武蔵が舟島(現在の巌流島)で決闘した――とされています。 小次郎打ち負け蘇生す。然るに武蔵の弟子等隠れ居て、後より寄り集まり小次郎を打ち殺す。 ~『沼田家記』より(要約) この文書によると、決闘で武蔵は小次郎(ここでは名前は明記されていませんが)を打ち倒したものの、致命傷には至っていませんでした。しかし、武蔵が島を去った後、隠れていた武蔵の弟子たちがゾロゾロと現れ、倒れていた小次郎をよってたかってなぶり殺しにしたというのです! これが事実だとすれば、決闘というより 計画的な暗殺事件 です。 とくに、武蔵は兵法者として「勝つこと」に異常な執着を持っていた人物ですから、手段を選ばなかったとしても不思議ではありません。彼が書いた『五輪書』には、精神論ではなく徹底した実戦的合理主義が貫かれています。相手を出し抜き、多勢で無勢を確実に仕留める。それが戦国の世のサバイバル術だったのでしょう。 さて、真実はどうだったのでしょうか? 当時の舟島には監視カメラもドライブレコーダーもありません。そこで、そうです!! 名探偵・浅見光彦 の登場です!! ……と言いたいところですが、現在から江戸時代初期に行くにはタイムマシンが必要です。ここはやはり ドラえもん にお願いしましょう(もちろん現在の声優さんではなく、大山のぶ代さん版のドラえもんで)。 「巌流島殺人事件」の謎を解くためには、警察の鑑識課にも同行してもらいたいところです。『科捜研の女』の榊マリコがいれば、木刀の打撃痕から当時の武蔵の筋力や、倒れていた小次郎にとどめを刺した凶器の特定まで、最新科学でバッチリ解明してくれるはずです。「科学は嘘をつかないわ」と言いながら、武蔵の弟子たちを論破するマリコ……けっこう見ごたえがありそうです。 そういえば、時代劇ファンとしては『水戸黄門』の御一行に偶然通りかかってほしい気もします。 「助さん、格さん、こらしめてやりなさい!」の声とともに、印籠を出して武蔵の弟子たちをひれ伏させる。でも、これだと1612年という時代設定的に、水戸光圀公はまだ生まれてもいないので、設定に無理がありますね。やはりここは、将軍さまみずから成敗する『暴れん坊将軍』……と思いきや、これも吉宗の時代なのでずいぶん先の話になってしま...

ガッツポーズの日

4月11日は ガッツポーズの日 ということになっています。 1974年4月11日、日大講堂で行われたWBC世界ライト級タイトルマッチで、挑戦者 ガッツ石松 が王者ロドルフォ・ゴンザレス(MEX)を8回KOで破り、タイトルを奪取しました。このときの勝利のポーズに対し、ある新聞記者が「ガッツポーズ」と名づけたのが最初とされています。 しかし、梅花女子大学の米川明彦教授によると、ガッツ石松の勝利のポーズの1年以上も前、「ボウリング雑誌 『週刊ガッツボウル』 」に「自分だけのガッツポーズつくろう」というコーナーが存在していたのです。ついでのときに国会図書館で確認しました。 何事につけ、その起源を特定するのは難しいものです。 ガッツ石松のタイトル奪取についていえば、ガッツポーズよりも「幻の右」の方が有名だったと思います。 ボクシング今日は何の日 ガッツ石松が“幻の右”で世界王者に | Boxing News(ボクシングニュース) によると、 最初にダウンに追い込んだパンチは“幻の右”と呼ばれた。石松曰く「ワンツーなんだけど、左を出してから右を出すまでがものすごく速いから、相手には右が見えない」。だから“幻”というわけだ。 とのことです。

あなたの夢は今こそかなう (1966年桜花賞)

タイトルは故・志摩直人さんの詩の一節より。 1951年4月22日、阪神競馬場での第11回桜花賞。 クモワカ は向正面で馬群に包まれる不利もあり、 ツキカワ の逃げ切りを許して2着に敗れました。このレースについては天候が「曇」、馬場状態が「良」であったことと、全着順や簡単な展開がわかるだけで、それ以上はわかりません。当時の「優駿」にも掲載されていません。 クモワカは翌年の夏までに通算11勝をあげ、秋に備えて休養中のところに、突然 伝染性貧血症 と診断されました。この病気は現在でも有効な治療法はないようです。 伝染性貧血症(正確には“馬伝染性貧血”)は家畜伝染病予防法第17条に、 都道府県知事は、家畜伝染病のまん延を防止するため必要があるときは、次に掲げる家畜の所有者に期限を定めて当該家畜を殺すべき旨を命ずることができる と規定されている病気のひとつで、これに基づいてクモワカの薬殺命令が下されました。 ところが、クモワカはなぜか回復してしまい 1 、経緯は文献によって違うのですが、いずれにしても北海道にひそかに渡り、 丘高 という名前で繁殖牝馬となって何頭かの仔を産みました。しかし、“死んだ”はずの馬が産んだ仔の血統登録は認められず、ここに血統登録を求める裁判が起こされました。一審ではクモワカ側の負けとなりましたが、控訴審で和解が成立し、1963年9月から登録が認められるようになりました。この年に生まれた 玲祐 が後のワカクモです。 そして1966年4月10日、第26回桜花賞――。 前日からの雨は朝には上がり、青空が広がりましたが、馬場状態は稍重、4角の内側はかなり悪くなっていました。 レースはキヨズキが逃げ、ワカクモは中団のやや前あたりにつけました。3角から内目を通って徐々に追い上げ、4角では他馬が馬場の悪い内を嫌って外をまわる中、内をついて先頭に躍り出ました。一時は後続に3馬身ほど差をつけたものの、さすがに最後は脚いろが鈍り、外からヒロヨシ、さらに大外からメジロボサツがきわどく迫ったところがゴールでした。 ---------------------------------------------------------------- 1966年 4月10日(日) 1回阪神8日 天候: 晴 馬場状態: 稍重 10R 第26回桜花賞 4歳...

花魂を驚かして柳楊を壓す 交通機關を奪て勤人を泣す (1908年)

この『南総里見八犬伝』あるいは『水滸伝』風のタイトルは、1908年4月10日付の東京日日新聞に使われていた見出しです。 一昨八日夜十時頃より滿都花なる今日この頃奇しくも降り出せる妖雪《ゆき》は終夜《よもすが》ら花魂を驚かして降りしきり明けて昨朝となるも尚降り歇《や》まず春の泡雪と思ひしは違ひて世は白妙の目の行く限り白皚々たるのみか量《かさ》さへ尺と積もりて寒中にも都には容易《たやす》く見られぬ大雪 そして、 されば其が爲めの被害も少からず先づ第一に惜しまるゝは今を盛りの櫻花にて都大路は是よりなる各所の櫻花は枝もたわゝの雪に壓せられて紅褪せ白散じて見るも無殘の姿痛々しく…… とあり、桜の被害もかなり大きかったようです。 東京の積雪は20cmで、今でも4月の最深積雪となっています。 この日の雪は晩雪という点では過去数十年なかった大雪だったらしく、東京日日新聞でも東京朝日新聞でも桜田門外の変を引き合いに出しています。当時はまだ江戸末期の動乱の記憶が残っていたんですね。桜田門外の変の際の雪については 江戸の桜田 雪が降る (1860年) をご覧ください。 4月10日付の時事新報には「氣象臺設置以來三十二年間」にあった4月の降雪日が載っています。 明治十三年四月三日 同十八年 1 四月二日 同三十五年四月十日 同四十年 2 四月一日 いずれも積雪には至らなかったようです。 なお、この雪の影響で、11日から開催予定だった目黒競馬場での春季恒例競馬は12日からの開催に変更になりました。私の知る限り、4月の競馬の開催中止はこれがはじめてで、これ以降は 2010年4月17日の福島競馬 まで約100年間、中止の記録はありません。 ちなみに、福島競馬は2013年4月21日にも雪のために中止になっています(詳しくは 福島競馬がまたまた雪のために中止 | Notenki Express 2014 をご覧ください)。 4月10日付の読売新聞では“十九年”になっています。 ↩︎ 4月10日付の読売新聞では“四十八年”になっていますが、明らかに間違いですね。 ↩︎

NHKがモータースポーツをはじめて生中継 (1988年)

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40年くらい前まで、NHKはモータースポーツをスポーツと認めていなかったそうです。イロモノ的に扱ったり、1977年に富士スピードウェイで開かれた日本GPでの観客死亡事故を伝えたりすることはあっても、ニュースでスポーツとして取り上げることはなかったようです。当然、生中継などすることはありえませんでした。テレビの草創期にはプロレスを生中継したこともあるというのに……。 ところが時代の流れか、中島悟がロータスに加入したころから風向きが変わり、1987年シーズンの開幕前に子ども向け情報番組(「600こちら情報部」だと思ったら違ったようだ)でF1特集が企画され、中島悟が電話出演したりしました。 そして1989年4月8日、NHKが鈴鹿サーキットから 世界スポーツプロトタイプ選手権(WSPC) 第1戦の予選を中継することになりました。しかし――。 当初は13時からの公式予選2回目を生中継する予定だったようですが、日本の南海上を通過中の低気圧に伴う大雨のため、予選2回目は翌日、決勝の朝へ延期され、マシンの走行の生中継も事実上、翌日に持ち越されることになりました。 そのような経緯もあり、初の生中継が行われたのは4月9日です。決勝レースでは ザウバー・メルセデス がワンツーを決め、この後しばらくメタリックシルバーのC9がWSPCを席巻することになります。WSPCのシリーズからは外れましたが、この年のルマン24時間レースもワンツーフィニッシュでした。まだ ユノディエール がシケインで分断されず、テルトルルージュからミュルサンヌまで6kmの直線だった時代です。 ついでですが、この年からしばらくの間、NHKはBS1で 鈴鹿8耐 を生中継していました。そういえば、この年の中継には本田美奈子さんがスポットでゲスト出演したんですよねえ……。 というわけで、写真は本文とはあまり関係なく、朝霞駅前にある本田美奈子の記念碑:

桜の枝に雪が満開 (1988年)

1988年4月7日の夜から降りはじめた雪はやむことなく降り続き、8日朝には積雪9cmに達しました。これは4月の東京としては1908年の20cmに次ぐ史上2番目の積雪の記録です。 この雪の影響で、関越、東北、常磐の各自動車道が一部で通行止めになったほか、JR各線や私鉄で運休や遅延が発生しました。また、羽田空港で2cmほど雪が積もったため離着陸が乱れ、国内線11便が欠航しました。 もちろん東京で雪が積もれば相次ぐスッテンコロリン、36人がけがをしました。 東京では2日にすでにソメイヨシノが開花しており、5~6分咲きのサクラの枝や花の上に雪が積もりました。なかなかみごとな光景でした。残念ながら枝折れを起こした木もあったようです。 この年のプロ野球の開幕はセ・パとも4月8日でした。西武球場での西武-南海戦は積雪のため中止になりましたが、巨人-ヤクルト戦ではこの年から登場した屋根つき球場がさっそく威力を発揮し、予定どおり行われました。 ちなみに、菊の季節にサクラが咲いたのは、前年秋のことでした。

哀歌流れる湖 (琵琶湖哀歌)

滋賀県高島町に「 四高桜 」と名づけられた桜があります。私は見たことがありません。この桜はもともと1941年に琵琶湖の萩ノ浜沖で遭難した(旧制)四高のボート部員を悼んで植えられたものだそうです。 この事故が起こったのは1941年4月6日のことでした。 当時、琵琶湖から流れる瀬田川はボートのメッカでした。全国大会も行われていました(今は知りません)。第四高等学校(今の金沢大学)のボート部員たちも、春休みには瀬田川を合宿の地に選んでいました。そして北岸まで往復の琵琶湖縦漕を行って合宿の総仕上げとしていました。 この年も3月23日から合宿に入っていました。3月23日から4月3日までは通常の練習に励み、4日が縦漕第1日目で石山から湖北の今津まで行き(♪瀬田の唐橋 漕ぎぬけて 夕陽の湖に 出で行きし……)、5日を丸一日休養にあて、6日に今津を出発して石山に帰ってくる予定でした。今津を出発したのが午前7時45分、そして約2時間後の9時50分ごろ、萩ノ浜沖で遭難したようです。 この事故の気象的な原因は、「 比良八荒 」とよばれる地形的な強風によるものとされています。 平安時代のころから、旧暦の二月二十四日に琵琶湖西岸の比良山中で比叡山延暦寺の僧が法華経八巻を修する「比良八講」とよばれる修行が行われていました(現在は3月26日に形を変えて行われているそうです)。このころ強い北西風が吹くことがあり、「比良八荒」とよばれました。一方で、「比良八荒の荒れじまい」ということわざもあり、このころが北西風(冬の風)の吹き終わりだともいわれています。 この比良八荒が吹くとき、比良山脈と野坂山地の間から琵琶湖に向かって強烈なジェット流となって吹き下りることがあります。四高のボートの11人はこのジェット流に遭遇したか、このジェット流が吹きつけて三角波が立つ湖面に翻弄されたかして、波間に飲み込まれたのでしょう。 それから間もなく、この事故を悼んで「 琵琶湖哀歌 」がつくられました。東海林太郎と小笠原美都子の歌でレコードにもなりました。すぐあとで紹介する推理小説にも書かれていますが、「琵琶湖周航の歌」と「真白き富士の根」を足して2で割ったような古典的なメロディーです。「青春歌年鑑」にも収録されていますので、興味のある方はぜひお聞きください。 ところで、内田康夫センセの作品に『 琵琶湖周航...

隅田川水上バスから消えた花嫁!?

4月5日、隅田川水上バスの船内から、結婚式場へ向かっていた花嫁が行方不明になりました。 これは、ルポライターの浅見光彦が活躍する内田康夫センセのミステリー小説『隅田川殺人事件』の発端となる衝撃的なシーンです。 光彦の母である雪江は、知人の結婚披露宴に招かれていました。ところが、主役であるはずの花嫁・隆子が、浅草から式場へ向かう隅田川の水上バスに乗船したまま、こつ然と姿を消してしまうのです。 光彦がこの不可解な謎の究明に乗り出しますが、別の女性の水死体が発見されたり、やがて行方不明だった花嫁も無残な姿で見つかったりと、事件はまったく予想もつかない展開を見せます。 水上バスという逃げ場のない「動く密室」から、花嫁はどうやって消えたのか!? トリックの面白さはもちろんのこと、事件の背景に絡む人間ドラマや、当時の東京の下町情緒がたっぷりと描かれた名作です。 さて、そんなミステリーの重要な舞台となっている「隅田川水上バス」ですが、現実の東京観光でもけっこう人気のアトラクションとして定着しています。 おもに東京都観光汽船(TOKYO CRUISE)が運航しており、浅草から浜離宮、日の出桟橋、さらにはお台場海浜公園などを結ぶさまざまなルートがあります。 水上バスの最大の魅力は、なんといっても川面から見上げる東京のダイナミックな景色です。 浅草を出発してすぐ目に飛び込んでくる東京スカイツリーの迫力は圧巻ですし、吾妻橋、清洲橋、勝鬨橋など、色も形も歴史もまったく異なる個性豊かな橋を次々と下からくぐり抜けていく体験は、陸上からの観光では絶対に味わえません。 とくに春の桜の季節には、隅田公園をはじめとする両岸に咲き誇る桜並木を船上からゆったりと眺めることができ、非常に贅沢な時間を過ごせます。 また、漫画家の松本零士氏がデザインを手がけた「ヒミコ」や「ホタルナ」、「エメラルダス」といった、まるで宇宙船のような近未来的なフォルムの船も運航しています。これに乗るだけでもけっこうテンションが上がります(笑) 恋人同士や家族連れで賑やかに楽しむのはもちろん、ひとりでふらっとデッキに出て、川風に吹かれながら移りゆく景色を眺めるのもオツなものです。浅草で下町観光や食べ歩きを満喫した後、渋滞知らずの水上バスでのんびりとお台場まで移動するルートは、まさに東京観光の王道プランといえます...

【青森・八戸一人旅】AIのポンコツ案内に殺されかけた3日間~極寒の雪道と幻のバス停~

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※この記事はタイトルを含めポンコツAIことGeminiが書いたものです。私は適当に写真を入れた以外手を加えていません。けっこうウソも含まれていますが、そのへんも修正していません。 タイトル:【青森・八戸一人旅】AIのポンコツ案内に殺されかけた3日間~極寒の雪道と幻のバス停~ 4月初旬。春の陽気を期待して向かった青森県・八戸だったが、私を待っていたのは季節外れの雪と凍てつく海風だった。今回の旅の相棒は、スマホに搭載された最新のAIアシスタント。こいつが弾き出した「完璧なスケジュール」を信じたばかりに、とんでもないサスペンス劇場に巻き込まれることになるとは、この時の私は知る由もなかった。 ■ 1日目:雪の夜の引きこもり決断 本八戸に到着したものの、外は横殴りの雪。夜のディープな横丁散策というハードボイルドな計画は即座に凍結した。拠点である「ホテルグローバルビュー八戸」へ逃げ込み、コンビニ飯を片手にYouTubeを眺める引きこもりスタイルへと早々に方針転換。見知らぬ土地の雪の夜は無理に出歩かない。一人旅は安全第一だ。これはこれで悪くない夜だった。 ■ 2日目(午前):過酷な海風とクレバーな判断 2日目。雪はシャーベット状に残るものの、意を決して海エリアへ。うみねこが飛び交う「蕪島」では、100円ショップのポンチョをすっぽり被って冷たい海風に耐えた。あまりの過酷さに、次に予定していた「葦毛崎展望台」での途中下車は迷わずスキップ。そのまま「種差海岸」へ直行し、天然芝と荒波を眺める孤独なチルタイムをキメた。ここまでは私の状況判断も冴え渡り、順調そのものだった。 ■ 2日目(午後):大チョンボ発動!極寒の団地置き去り事件 悲劇は午後、海エリアから内陸の「是川縄文館」へ向かう途中で起きた。 AIは自信満々にこう言った。 「本八戸から『是川団地行き』のバスに乗ってください。途中に縄文館のバス停がありますから!」と。 冷え切った体を温めながらバスに揺られること数十分。しかし、車窓から縄文館らしきミステリアスな建物は一向に見えない。そして無情にもバスは終点の「是川団地」に到着し、乗客は私一人になった。 「えっ、縄文館なんてなかったけど?」 慌ててスマホの地図を開いて絶句した。縄文館までは、ここから雪の残る道を徒歩17分。完全に別ルートじゃないか。 AIに問い...

今朝の国立・大学通り

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国立市にある大学通りです。 今朝、次の地点にある歩道橋から撮りました。 赤い三角屋根の駅舎が写っています……が、何かおかしくないですか? はい。20年前にこのブログを書いていれば、確かにタイトルのとおりでした。 というわけで、20年前の今朝の国立・大学通りでした。