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おかわりの「どこかにマイル」で熊本へ (2025年7月)

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まずはお詫びポスト(旧ツイート)から。 熊本地震のとき,申し訳ないけど「益城町」を知らなくて「まつしまし」と聞こえて,どうして「松島市」? と思ったものだった。 そのときはまさか益城町に来ることになるとは思っていなかった — やぎにょん ( @yaginyone_jnr ) July 10, 2025 去年の4月、ちょうど今ごろ、「どこかにマイル」で高松に行ったのが楽しくて、JALマイルが残っていることもあり、7月におかわりでどこかにマイルに行きたくなりました 1 。 候補に選んだのは「熊本」「北九州」「高知」「大分」。それまで九州には行ったことがなかったので九州のどこかに行きたいなあ……と思いつつ、四国で唯一行ったことのなかった高知にも行ってみたいなあ……と、要するにどこが当たってもいい状態でした(笑) そして引き当てたのは「熊本」。 真っ先に浮かんだのは熊本城――ではなく、熊本大洋デパート――でもなく、私の父方の祖先が熊本の出身だということでした。 とりあえず市内のホテルを予約して簡単なスケジュールを考えます。2日目の天気によっては祖父の出身地に行ってみようかとも考えていました。とはいっても、仮に天気がよかったとしても7月の蒸し暑い時期、熊本市内からは片道1時間半から2時間かかり、しかも少なくとも30分程度は徒歩移動というかなりの強行軍が予想されました。 第1日目:予期せぬ「益城町」との遭遇 とくにトラブルもなく、阿蘇くまもと空港に到着。 ここからバスで熊本市内に移動するわけですが、そういえば、熊本のバスでは全国共通交通系ICカードが使えなくなるという情報を前年(2024年)の9月ごろ聞いていました。そのときはまさか翌年に熊本に来ることになるとは思ってもみませんでした。 そしてバスの車窓から標識の「益城町」という地名を見て、最初に紹介したポスト(旧ツイート)になるわけです。 ホテルは熊本城が見える部屋を予約しました。 明日の天気は朝のうちは雨で、のちに回復するという予報でしたが、はたして……。 第2日目:雨の熊本城と、生々しい震災の爪痕 予報どおり、朝のうちは雨が降っていました。 ホテルの部屋でしばらくボーッとしていましたが、 止みそうになかったので、小降りになったタイミングを見て、外に出かけました。ご先祖さまの地を訪...

巌流島の決闘? (1612年)

慶長十七年四月十三日(グレゴリオ暦で1612年5月13日)、佐々木小次郎と宮本武蔵が舟島(現在の巌流島)で決闘した――とされています。 小次郎打ち負け蘇生す。然るに武蔵の弟子等隠れ居て、後より寄り集まり小次郎を打ち殺す。 ~『沼田家記』より(要約) この文書によると、決闘で武蔵は小次郎(ここでは名前は明記されていませんが)を打ち倒したものの、致命傷には至っていませんでした。しかし、武蔵が島を去った後、隠れていた武蔵の弟子たちがゾロゾロと現れ、倒れていた小次郎をよってたかってなぶり殺しにしたというのです! これが事実だとすれば、決闘というより 計画的な暗殺事件 です。 とくに、武蔵は兵法者として「勝つこと」に異常な執着を持っていた人物ですから、手段を選ばなかったとしても不思議ではありません。彼が書いた『五輪書』には、精神論ではなく徹底した実戦的合理主義が貫かれています。相手を出し抜き、多勢で無勢を確実に仕留める。それが戦国の世のサバイバル術だったのでしょう。 さて、真実はどうだったのでしょうか? 当時の舟島には監視カメラもドライブレコーダーもありません。そこで、そうです!! 名探偵・浅見光彦 の登場です!! ……と言いたいところですが、現在から江戸時代初期に行くにはタイムマシンが必要です。ここはやはり ドラえもん にお願いしましょう(もちろん現在の声優さんではなく、大山のぶ代さん版のドラえもんで)。 「巌流島殺人事件」の謎を解くためには、警察の鑑識課にも同行してもらいたいところです。『科捜研の女』の榊マリコがいれば、木刀の打撃痕から当時の武蔵の筋力や、倒れていた小次郎にとどめを刺した凶器の特定まで、最新科学でバッチリ解明してくれるはずです。「科学は嘘をつかないわ」と言いながら、武蔵の弟子たちを論破するマリコ……けっこう見ごたえがありそうです。 そういえば、時代劇ファンとしては『水戸黄門』の御一行に偶然通りかかってほしい気もします。 「助さん、格さん、こらしめてやりなさい!」の声とともに、印籠を出して武蔵の弟子たちをひれ伏させる。でも、これだと1612年という時代設定的に、水戸光圀公はまだ生まれてもいないので、設定に無理がありますね。やはりここは、将軍さまみずから成敗する『暴れん坊将軍』……と思いきや、これも吉宗の時代なのでずいぶん先の話になってしま...

ガッツポーズの日

4月11日は ガッツポーズの日 ということになっています。 1974年4月11日、日大講堂で行われたWBC世界ライト級タイトルマッチで、挑戦者 ガッツ石松 が王者ロドルフォ・ゴンザレス(MEX)を8回KOで破り、タイトルを奪取しました。このときの勝利のポーズに対し、ある新聞記者が「ガッツポーズ」と名づけたのが最初とされています。 しかし、梅花女子大学の米川明彦教授によると、ガッツ石松の勝利のポーズの1年以上も前、「ボウリング雑誌 『週刊ガッツボウル』 」に「自分だけのガッツポーズつくろう」というコーナーが存在していたのです。ついでのときに国会図書館で確認しました。 何事につけ、その起源を特定するのは難しいものです。 ガッツ石松のタイトル奪取についていえば、ガッツポーズよりも「幻の右」の方が有名だったと思います。 ボクシング今日は何の日 ガッツ石松が“幻の右”で世界王者に | Boxing News(ボクシングニュース) によると、 最初にダウンに追い込んだパンチは“幻の右”と呼ばれた。石松曰く「ワンツーなんだけど、左を出してから右を出すまでがものすごく速いから、相手には右が見えない」。だから“幻”というわけだ。 とのことです。

あなたの夢は今こそかなう (1966年桜花賞)

タイトルは故・志摩直人さんの詩の一節より。 1951年4月22日、阪神競馬場での第11回桜花賞。 クモワカ は向正面で馬群に包まれる不利もあり、 ツキカワ の逃げ切りを許して2着に敗れました。このレースについては天候が「曇」、馬場状態が「良」であったことと、全着順や簡単な展開がわかるだけで、それ以上はわかりません。当時の「優駿」にも掲載されていません。 クモワカは翌年の夏までに通算11勝をあげ、秋に備えて休養中のところに、突然 伝染性貧血症 と診断されました。この病気は現在でも有効な治療法はないようです。 伝染性貧血症(正確には“馬伝染性貧血”)は家畜伝染病予防法第17条に、 都道府県知事は、家畜伝染病のまん延を防止するため必要があるときは、次に掲げる家畜の所有者に期限を定めて当該家畜を殺すべき旨を命ずることができる と規定されている病気のひとつで、これに基づいてクモワカの薬殺命令が下されました。 ところが、クモワカはなぜか回復してしまい 1 、経緯は文献によって違うのですが、いずれにしても北海道にひそかに渡り、 丘高 という名前で繁殖牝馬となって何頭かの仔を産みました。しかし、“死んだ”はずの馬が産んだ仔の血統登録は認められず、ここに血統登録を求める裁判が起こされました。一審ではクモワカ側の負けとなりましたが、控訴審で和解が成立し、1963年9月から登録が認められるようになりました。この年に生まれた 玲祐 が後のワカクモです。 そして1966年4月10日、第26回桜花賞――。 前日からの雨は朝には上がり、青空が広がりましたが、馬場状態は稍重、4角の内側はかなり悪くなっていました。 レースはキヨズキが逃げ、ワカクモは中団のやや前あたりにつけました。3角から内目を通って徐々に追い上げ、4角では他馬が馬場の悪い内を嫌って外をまわる中、内をついて先頭に躍り出ました。一時は後続に3馬身ほど差をつけたものの、さすがに最後は脚いろが鈍り、外からヒロヨシ、さらに大外からメジロボサツがきわどく迫ったところがゴールでした。 ---------------------------------------------------------------- 1966年 4月10日(日) 1回阪神8日 天候: 晴 馬場状態: 稍重 10R 第26回桜花賞 4歳...

花魂を驚かして柳楊を壓す 交通機關を奪て勤人を泣す (1908年)

この『南総里見八犬伝』あるいは『水滸伝』風のタイトルは、1908年4月10日付の東京日日新聞に使われていた見出しです。 一昨八日夜十時頃より滿都花なる今日この頃奇しくも降り出せる妖雪《ゆき》は終夜《よもすが》ら花魂を驚かして降りしきり明けて昨朝となるも尚降り歇《や》まず春の泡雪と思ひしは違ひて世は白妙の目の行く限り白皚々たるのみか量《かさ》さへ尺と積もりて寒中にも都には容易《たやす》く見られぬ大雪 そして、 されば其が爲めの被害も少からず先づ第一に惜しまるゝは今を盛りの櫻花にて都大路は是よりなる各所の櫻花は枝もたわゝの雪に壓せられて紅褪せ白散じて見るも無殘の姿痛々しく…… とあり、桜の被害もかなり大きかったようです。 東京の積雪は20cmで、今でも4月の最深積雪となっています。 この日の雪は晩雪という点では過去数十年なかった大雪だったらしく、東京日日新聞でも東京朝日新聞でも桜田門外の変を引き合いに出しています。当時はまだ江戸末期の動乱の記憶が残っていたんですね。桜田門外の変の際の雪については 江戸の桜田 雪が降る (1860年) をご覧ください。 4月10日付の時事新報には「氣象臺設置以來三十二年間」にあった4月の降雪日が載っています。 明治十三年四月三日 同十八年 1 四月二日 同三十五年四月十日 同四十年 2 四月一日 いずれも積雪には至らなかったようです。 なお、この雪の影響で、11日から開催予定だった目黒競馬場での春季恒例競馬は12日からの開催に変更になりました。私の知る限り、4月の競馬の開催中止はこれがはじめてで、これ以降は 2010年4月17日の福島競馬 まで約100年間、中止の記録はありません。 ちなみに、福島競馬は2013年4月21日にも雪のために中止になっています(詳しくは 福島競馬がまたまた雪のために中止 | Notenki Express 2014 をご覧ください)。 4月10日付の読売新聞では“十九年”になっています。 ↩︎ 4月10日付の読売新聞では“四十八年”になっていますが、明らかに間違いですね。 ↩︎

NHKがモータースポーツをはじめて生中継 (1988年)

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40年くらい前まで、NHKはモータースポーツをスポーツと認めていなかったそうです。イロモノ的に扱ったり、1977年に富士スピードウェイで開かれた日本GPでの観客死亡事故を伝えたりすることはあっても、ニュースでスポーツとして取り上げることはなかったようです。当然、生中継などすることはありえませんでした。テレビの草創期にはプロレスを生中継したこともあるというのに……。 ところが時代の流れか、中島悟がロータスに加入したころから風向きが変わり、1987年シーズンの開幕前に子ども向け情報番組(「600こちら情報部」だと思ったら違ったようだ)でF1特集が企画され、中島悟が電話出演したりしました。 そして1989年4月8日、NHKが鈴鹿サーキットから 世界スポーツプロトタイプ選手権(WSPC) 第1戦の予選を中継することになりました。しかし――。 当初は13時からの公式予選2回目を生中継する予定だったようですが、日本の南海上を通過中の低気圧に伴う大雨のため、予選2回目は翌日、決勝の朝へ延期され、マシンの走行の生中継も事実上、翌日に持ち越されることになりました。 そのような経緯もあり、初の生中継が行われたのは4月9日です。決勝レースでは ザウバー・メルセデス がワンツーを決め、この後しばらくメタリックシルバーのC9がWSPCを席巻することになります。WSPCのシリーズからは外れましたが、この年のルマン24時間レースもワンツーフィニッシュでした。まだ ユノディエール がシケインで分断されず、テルトルルージュからミュルサンヌまで6kmの直線だった時代です。 ついでですが、この年からしばらくの間、NHKはBS1で 鈴鹿8耐 を生中継していました。そういえば、この年の中継には本田美奈子さんがスポットでゲスト出演したんですよねえ……。 というわけで、写真は本文とはあまり関係なく、朝霞駅前にある本田美奈子の記念碑:

桜の枝に雪が満開 (1988年)

1988年4月7日の夜から降りはじめた雪はやむことなく降り続き、8日朝には積雪9cmに達しました。これは4月の東京としては1908年の20cmに次ぐ史上2番目の積雪の記録です。 この雪の影響で、関越、東北、常磐の各自動車道が一部で通行止めになったほか、JR各線や私鉄で運休や遅延が発生しました。また、羽田空港で2cmほど雪が積もったため離着陸が乱れ、国内線11便が欠航しました。 もちろん東京で雪が積もれば相次ぐスッテンコロリン、36人がけがをしました。 東京では2日にすでにソメイヨシノが開花しており、5~6分咲きのサクラの枝や花の上に雪が積もりました。なかなかみごとな光景でした。残念ながら枝折れを起こした木もあったようです。 この年のプロ野球の開幕はセ・パとも4月8日でした。西武球場での西武-南海戦は積雪のため中止になりましたが、巨人-ヤクルト戦ではこの年から登場した屋根つき球場がさっそく威力を発揮し、予定どおり行われました。 ちなみに、菊の季節にサクラが咲いたのは、前年秋のことでした。